最終結果を見る

バール・ハスラム、『Introduction to the Book of Zohar(ゾハールの書の序章)』項目4:これらの質問と疑問を理解するために、その唯一の戦術は行為の終わり、すなわち創造の目的を調べることである。唯一その終わりで以外に、プロセスの途中で理解されることは何もないためである。

これはルールです、行為の終わり(結末)をよく見ることだけによって、すべての詳細、様相、すべての理由、そして、プロセス全体が理解できます。その理由は、唯一その終わりで、あらゆる詳細がどれぐらい重要であって、どの程度これらすべての詳細がこの順序で次々とアレンジされなくてはならないのかが明確になるからです。唯一その終わりで、すべてが完全だと分かります。すべての詳細が正しくアレンジされる時にだけ、完全なる終わりが可能なのです。しかし、私たちが道の途中にいるのなら、どのように終わりに達するのでしょうか?

そして、目的(意図)のない行為がないことは明白である。今日、この事を近代科学で見ます。近代科学では確かにすべては因果関係と絶対的法則に従って動きます。少なくとも自然の中の静物レベル、植物レベル、動物レベルにおいて、私は偉大な知恵、論理、常識を発見します。そこには余計なものはなく、すべては、あらゆる小さな詳細がその他すべての無数の詳細に連結できるようにアレンジされています。だから私は「スピーキング」レベルに関して結論に達することができます:私がその中に見る堕落は、私の堕落した個人的な知覚から生じていて、それが私に「スピーキング」レベルにも存在する素晴らしい秩序を見させなくしていて、それどころか、真実と逆の様相や光景を私に見せているということです。人間社会の中で堕落や大混乱を実際に見ますが、それは私たちがそれを生じさせているからです。

もちろん、この現象に対する他の説明もあり得ます:クリエーターは善良で慈悲深い、彼はすべてを包含していてすべてを行う、しかし、彼は彼の創造物を見捨てたと言うことができます。バール・ハスラムは彼の記事『The Peace(平和)』のなかで、このアプローチについての様々な検証を提示します。しかし、私がすでに人生で目にするものに反応して異なるアプローチを使うならば、最終結果を見るほうが望ましいということをよりよく理解します。私たちの研究における経験から、自然が一定のゴールに向かって発達することが分かります。だからバール・ハスラムは、唯一最終結果を見ること以外に、中間(途中)で理解できることが何もないため、最初に創造のゴールに目を向けるべきだと言うのです。

私は、クリエーターがすべての現実を創造してその後にそれを放っておいたと言って、トーラーとミツヴォット(ミツワーの複数形)の重荷を背中の上に投げる者たちがいることを知っている。ここでバール・ハスラムは、すべてが人間のために創造されたこと、人間が創造物の中心に位置していること、そして、この地点からしか私たちが正しく成長できないことを信じない人々について言及しています。すべては私のために創造された-私たちの世界全体とすべての諸世界-そして、私はこのことを受け入れなくてはなりません。それを明らかにしないといけません。状況を制しなくてはならないのです。「私のため」とは、私がそれを是正でき、それを利用することができるということを意味します。この利用のことは「ミツヴォットを尊守する」と呼ばれ、“改善する光”または“トーラー”の助けを借りて行います。こうして私たちは創造のゴールに達するのです。

確かに、彼らが話した知識なしに、私たちが私たちの堕落した極めて不快な性質の全部で私たち自身を創造したと決める前に、私たちの低さ(卑しさ)と無価値についてコメントすることは不可能であるため。私たちが完全でないことは明白です。しかし、どういうふうに世界の中のすべてのものが徐々にその完全性をあらわにすることを目にしないなら、世界が低いと決めることは不可能です。

問題は:もしクリエーターが完全なら、最初から完璧なやり方で進化を創造したのではないのかということです。 しかし、そんなことはあり得ません。創造された存在の中にも現実がなくてはならないためです。この現実はクリエーターと正反対です。従って、それは二つの反対の部分が組み込まれなくてはなりません:クリエーターの性質と創造された存在の性質です。その二つの性質は創造物の中で成長し、その内部でお互いに向かい合います。それはその二つの性質の中間にあり、それ自身を二つの力から作り上げます:授与の力と受け取りの力です。

この意味は、もしゴールが分からないなら、当然創造を正当化できるようにはならなく、以下のような様々な正当化の理由を見つけるということです:完全であるクリエーターは私たちに失望している、私たちを置き去りにした、彼の完全性の中のどこかで見つかる。他の意見には、クリエーターは善の力と悪の力これら二つの力の中にはまったく見つからない、または、多くの善の力と多くの悪の力があるなどがあります。

どちらにせよ、人がトーラーを受け取らない限り、起きていることを正当化することは明らかに不可能です。「トーラーを受け取らない限り」の意味は、その人が堕落したシステムの中にいて、それがそうであるのは、その人がその部分になるため、そして、毎回システムを稼働させることをさらに目指すということへ自分自身を引き寄せながら光によってそれを是正するためということを理解している状態に到達しない限りということです。その後にその人は、すべてが自分のために創造されたことと、最初にそのシステムを是正することなしに、より正確には、それをインストールすることなしに、クリエーターのレベルに到達することが不可能だと悟ります。子供たちがおもちゃを集めておもちゃを組み立てるといったゲームを通じて自分自身を作り上げるのと同じように、私たちの作業においても、つまりパーツを接続する(つなげる)ことにおいても、それは同じです。だから私たちはゴールを理解するために、つながり、ユニティ、そして相互保証のゲームをしなくてはならないのです。

 

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