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非個人的な生(せい)

質問:どのようにして正しいつながりを感じればよいのでしょうか?

答え:正しいつながりとは、つながりのみを感じて、われわれ自身を感じない時のことです。それは今起きていることとは正反対なことです。

もし我々の皆が自分自身を切り離すのなら、我々は我々の間にあるつながりだけを感じるでしょう。すなわち、生きていて存在している全員から成る体のことです。各自は自身の個人的な細胞を感じるのではなく、全員から成る体の中に含まれて、自分自身ではなく全員から成る体のみを感じるまで自分自身を捧げるでしょう。これが、つながりを達成(獲得)したことを意味するのです。

個人的に誰かに属しているのではなく、我々のつながりの結果である、全員から成る体における生命の集団的感覚、この感覚のことをクリエーターと呼びます。

この器をアダム(人間)と呼び、それを満たしているものをクリエーター・生命の光・授与の相互的な力と呼ぶのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 9/20/12, Writings of Rabash

相互保証は霊的誕生の必要条件

ミューチュアル・ギャランティ(相互保証)のおかげで、人は、その人の必要物全てを提供するために皆がサポートしてくれている、と感じる状態に達します。そしてその状態において、人は他者について考えることが可能になります。人が自分のエゴを乗り越えるのは、この条件においてのみです。

エゴを乗り越えさせる他の力はありません。このエゴは私達を支配する唯一の力であり、それはグループの中でのみ中性化することができます。

もしグループが私のエゴを中性化せず無効化しないならば、私は自分自身の力だけで中性化することは決してできないでしょう。私はその中に永遠に埋もれたままで、そこから誕生して脱出することはできないでしょう。それゆえ、この相互保証は私にとって生命の法則であり、私の霊的誕生の必要条件となります。

もし私がグループから、十分な保護と必要な物全ての供給という、この安全の感覚を受け取らなかったならば、私は自分自身を越えて上ることはできないでしょう。実際、私の中にこの感覚を生むものは相互保証です。この感覚は全く私個人に起因するものではありません。もし友人達が彼らの相互保証によって私に影響を与えるならば、私が彼らについて考えることを止めることはありません。相互保証はそのように働きます。

それは母の両腕の中にいる赤ん坊に似ています。そこでは赤ん坊はいかなる問題も持ちません。赤ん坊は本能的に安全を感じ、そして必要な物は何でも与えられるであろうと感じています。私もまた、グループの両腕の中にあって、この赤ん坊のように感じることになります。全ての問題、全ての心配、全ての疑問が去ったように感じるのです。

私個人につながっているものは何もありません。それはまるで私が空中に浮かんでいるかのようです。私が他者について考え始めることが可能になるのは、まさにこのような瞬間からです。

私達は、不変の法則について、私達に作用する力について、話しています。それは私のファンタジーや推測ではありません。もし、この相互保証の力が私に作用するなら、そのとき私は自分自身を切り離し、そして私個人の欲する・欲しないには何の違いもなくなります。もし友人達がこの力で私に作用するなら、私は自分のエゴの支配から自由になります。そして、その瞬間から、私は他者について考えることが可能になるのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 9/24/12, Writings of Baal HaSulam

値段の付けられない科学

バール・ハスラム「パニーム・メイロート・ウ・マシュビロート(歓迎と光照の啓示)の書の序論」p5:これがそうであるのは、もはや、自分の利点・価値を維持できなくなり、市場でこの「知恵」を取引することになるかもしれない、という恐れがないからである。群衆の中に、それを市場で買う者はいない。この知恵は、見返りとして名誉も本能的欲望も満たされないため、彼らの眼にはとても忌々(いまいま)しいものと映る。

それ故、(知恵の世界に)入りたいと望むすべての人は、来て入ることができる。そこには多くの放浪の旅路があり、知識はそれに相応しい人々の間で増すだろう。そしてそれによって、私達は速やかにメシアの到来という報いを受けるであろう。そして我々の時代において、速やかに魂の救済があるだろう。アーメン。

何世代にも渡って、カバラの科学は神秘主義と考えられてきました。タロットカード、祝福と呪い、黒魔術、精霊・亡霊、悪魔など、およそ人間の想像力の及ぶもの全てが、カバラと見なされてきました。何世紀もの間、人々は、これらの道具が、人に世界を支配する力を与え、勝利すること、富栄えること、優位を占めること等をもたらすと信じていました。それで、多くの人々が、おそらくそこに隠れているはずの、この超自然的な力を知り、理解し、習得することを欲しました。誰もが成功し他者に抜きん出ることを夢見ています。それは明らかです。

そのような訳で、カバラの知恵は、そのようなものとして扱われてきました。「ユダヤ人は力を与える秘密の知恵を所有している...」という言説や、フリーメイソン及びあらゆる種類のセクト(党派)の存在など、沢山の発明・創案がありました。しかしカバリストは真実を隠してきました。そのため、本当はカバラの本質とは、人々のユニティ(統一・和合)の科学であることを誰も知りませんでした。

今日、私達がカバラの科学をより理解するに従って、人類は次第にその神秘のオーラに別れを告げることになり、結果として、もはやそれを必要としなくなっています。「なぜ私にそれが必要なんだい?統合?私が期待しているのは、奇術や占いや、取引の成功や、全ての病気を治す薬や、奇跡を起こすことなんだ。でも、人々の統合だなんて、自分の胸にでもしまっておいてくれ。たとえ君がお金を出すと言ったって、私はそんなもの必要としていないよ。」

そうして、人々はこの知恵を拒絶します。ここに真実が現れています。なぜなら私達のエゴイズムは実際、この統一の科学を拒絶し、受け入れません。これは自然な態度です。人は他者を避け、統一のニュースを軽蔑し、それを何かむかむかさせるようなものとして憎み、蔑みます。しかしそれから彼は、他に選択肢がないことが分かってきます。彼は様々な要因によってその方向に導かれるようになります。その要因とは、私達の普及活動であり、様々な問題であり、現在の危機を脱することは統一を通してのみ可能である、という理解です。

「しかし、どのようにしてそれが可能なのか?どこで私達はその力を得ることができるのか?行動の手順は何か?」まさにその疑問が起きるとき、人々はカバラの科学を、本来の正しい真実のかたちである、統一の知恵として明らかにしてゆくでしょう。

この科学に結びついた革命は、今日起こらなければなりません。そして私達はその展開のペースを加速させなければなりません。そして現在のカバラに対する一般的な軽視は、むしろ(正統な)カバラを守るものであるため、真に統一を願い努力を捧げる者達だけが、各々の能力に従って、カバラに向かい関わってくるようになります。そのようにして、カバラの周りに外的なサークルが形作られます。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 9/20/12, “Introduction to the Book, Panim  Meirot  uMsbirot”

この世界の外にある物事について話しましょう

質問:インテグラル・エデュケーション(統合的教育)のグループでは、何を議論するのがベストですか?また何を議論しないのがベストですか?

答え:比喩的に言えば、私達は愛と友情についてのみ語るべきです。私達は今の自分たちの状態を調べたりはしません。なぜなら、それらはすべて動物レベルに存在しているからです。

はじめに私達は「人間」レベルに上がらなければなりません。そしてその全体的なイメージを創りあげなければなりません。それは私達に共通する授与と愛の特質であり、そのようなお互いに対する私達の態度です。私達は議論を、私達の間の正しい相互関係ネットワークのレベルにのみ保つことができます。また私達の集合的状態を強める物事についてのみ議論することができます。

なぜそうするのでしょうか?なぜなら、その状態でより強くなることによって、私達は確かな力を生成させ始めます。そしてその力が私達の現在の動物状態を照らして変化させ始めます。より高い状態からのみ私達はより低い状態を変えることができます。私達の衝突・争いのすべては次第に消えてしまうか消える前にエスカレートするかでしょう。そしてこの背景のもとで、私達は私達のコネクション(つながり)を発達させているのです。

From a Talk on Integral Upbringing 3/4/12

木から降りてくるだけでは不十分 ー あなたは自分自身の上に登らなければならない

質問:今日の人々は、今や世界の物事はますます悪くなっていくだけであろうと、理解しています。しかしカバラの教えは、そのような一般大衆から、今もずっと離れたところにあります。私達はこの距離をどうカバーすることができますか? そして何故、そのような距離があるのですか?

答え:それは(カバラを学ぶ)私達と人類に努力する機会を提供するために、そこにあります。この分離が私達と外部社会とに、お互いに相互作業をすることを可能にします。この距離はある目的のために創造されました。あなたは自分の知識、認識、理解をここに投入しなければなりません。

それはまるで、自然の発達過程が続くことを阻止しているかの様に見えます。かつてサルが木々から降りると、それは時の経過とともに原始人となりました。これに続いて奴隷の時代、中世、そして資本主義時代が来ました。そして今日この発達は崩壊に終わってしまい、人々は(次には)よい統一が必要であると認識するに至りました。それでは、なぜこの発達は自動的に続かないのでしょうか? 

なぜなら、もし自動的に続くとすれば、人間という存在は決して現れることはなかったでしょう。それはエゴイズムによって突き動かされ、木々から降りてきた霊長類と同じままだったでしょう。私達は自分達が完全に自己愛のコントロール下にあることに気づいていません。もし私が、私達すべてが存在しているこのシステムを見せられたなら、私は自分自身の管理下でしていることは何もないことを見るでしょう。この状況においては、クリーチャー(創造物・生命)は現れません。誰かをとって、独立性を遮断するフィルターに掛けてみましょう。すると彼には上層の力以外に何も残りません。その上層の力は初めからそこにあったものです。

「どのように人間をつくるのか?」これが問題です。人間は、暗闇と、僅かな知識と、僅かな力を与えることによってのみ、つくることが可能です。この僅かな力はその人に、自分の生来の性質に打ち勝つ道を見つける機会を与えます。そして多くの知識や理解なしでも、その暗闇の外へ彼を連れ出す、(彼の生来の性質とは)反対の力を築く機会を与えます。それから、彼はクリエイターの必要な部分になりたいと思うようになり、自分自身を喜んでその環境に従属させます。その環境もまた、彼がそうすることを義務付けるようになります。そして彼は、この相互的な仕事を通して、超自然的な形態、つまり自分の生来の性質を超えた形態、を獲得することができるようになります。この形態のことを「人間(アダム)」と呼びます。それは、彼が一匹のサルだった時代からずっと彼の中に残されていたレシモット(情報遺伝子)を使わずに創造した形態です。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 9/19/12, “Introduction to the Book, Panim Meirot uMasbirot

新年前の畏れの日々

人がスピリチュアリティに目覚めさせられた後、以後の上昇は(その人の)欠乏に依存します。これが彼がなすべく要求される唯一のことです。すなわち、MANと呼ばれる祈り、欠乏を持つことです。

これは、人がそのような切望を受け取ったことに感謝するときのみ可能です。それ後で彼は自分自身でゴールの重要性を強めます。つまり次のレベルの重要性です。加えていえば、何よりも彼が、自分の中にもう一つ別の欠乏を発達させ、自分自身のためではなくクリエイターに満足をもたらすために上昇しようとするなら、それは可能です。それはホスト(主人)を喜ばせようとするゲスト(客)の有名な例に似ています。

このようにして、彼は上層からの助けを受け取れるように自分を準備します。そしてその助けが彼の欲求を正しいものに作り上げるでしょう。たとえ人が、どれほど私達の取引が実際エゴイスティックなものかを理解していなくても違いはなく、しばらくはそれでも十分です。あとから彼は、彼の取引がクリーンではないことを知るでしょう。こういうわけで、この準備の時期はロー・リシマ(彼女のためではない)と呼ばれます。

それは自然なエゴイスティックな取引であり、私達のエゴを一度に全てスキップすることは不可能です。それは私達が努力できる程度により、そして、どの程度(自分の習性に)反対して仕事ができるかにより、徐々に開いていくものです。(その仕事は)私達が通常喜びを見つけるものとは反するものであり、私達の習慣に反するものであり、そして私達が他者とつながるために、自分のプライドを踏みつける準備ができている程度によるものです。

このすべては単純ではありません。しかし、もし人がそれに常に注意を払い続けるのなら、彼は前進します。私達の問題は、誰もが自分のコーナー(片隅)に逃げて隠れようとすることです。いわゆる「勉強」の背後に隠れ、何が書かれているのか知りたいという欲望の背後に隠れます。しかし、それはスピリチュアルな前進とも、内的な是正・修正とも関係がありません。人は、頭脳を乾いた事実で満たし、心の中の作業は無視します。

心の中の作業とは、その心に反して作業をすることです。「石の心」を「肉の心」に換えるためです。しかし私達は主な努力を置くべき場所を忘れています。誰もが何らかの快適なスポットを見つけ、自分の道を見つけたと考えます。このようにして彼はロー・リシマからさえ落ちます。なぜならロー・リシマとは、自分のエゴの範囲内にも関わらず、依然として上に登るための何らかの努力をしているときのことだからです。

他者とつながり、他者の要望を認め、自分自身を踏みつけ、自分の「セルフ」を無にし、グループの意見の重要性を受け入れ、その使命の奴隷となるような、日々の仕事はどこにあるのでしょうか? 私は自分自身を調査し、私がいる状態を見ることができるでしょうか? これがロー・リシマと呼ばれます。

エジプトでのモーセの仕事の全ては、ロー・リシマにおける仕事の例です。彼は奴隷状態から逃れたいと思いましたが、恐れていました。なぜなら彼は、自分がファラオ(つまりエゴ)の支配下におり、彼にどう話をすればよいか分からないことを、理解していたからです。そしてそこから、クリエイター自身がモーセをつかみ、ファラオのもとに連れていき、モーセがする全てのことにおいて彼を助ける状態に至ります。

クリエイター自身がファラオと戦います。彼は言います。「ファラオのもとへ来なさい!」しかししばらくの間、人は恐れます。彼は、エゴが全体的に彼を支配しており、その前に立つとき彼がいかに弱いかを知っています。彼は恒常的なジレンマの中にいます。一方では、彼は準備ができており、他方では、準備ができていません。もし彼が少なくとも、クリエイターに彼の前に行くようにお願いすることができたなら、そして、ちょうどクリエイターの背後に隠れ、そのようにしてファラオの前に立つことができたなら、と思います。しかし彼は実際には行くことは望まず、彼のエゴだけでなく、「イスラエルの国家」と呼ばれる自分自身の属性にも、立ち向かうガッツを持ちません。

しかし、自分をファラオやクリエイターや国家につなげる、ひとつのシステムの中に入ることによって、彼はこれら全てのつながりを明らかにしなければなりません。彼は何らかの理論の背後に隠れることも、ただの手段である何らかの仕事の背後に隠れることもできません。ロー・リシマが何を意味するか明らかにすることはとても重要です。

人がリシマ(彼女のため)の状態に入るとき、物事はより明白になり、より疑う余地のないものになります。物事がより易しくなると言うことはできませんが、人はその体験から利益を得ます。しかし当面の間、つまり準備期間の間は、人は彼の最後の日まで、座る用意のできた片隅に身を避けます。もしグループが彼を駆り立てず案内しないなら、それは大きな問題です。彼は、彼ら(グループ)が言うことを聞くために、彼らよりも低いと感じなければなりません。

助けがないという感じが一方にあり、他方には前進する必要性があります。この状態をヤミーム・ノライーム(畏れの日々)と呼びます。人は不安な状態にあります。というのも彼はクリエイターの欲求を満たすことができず、創造主が全ての創造物に顕現させることができず、創造主と創造物の収束(コンバージェンス)のために自分自身を捧げることができない、という恐れを持つからです。

このすべてが彼の中に畏れを呼び起こします。それで、この期間が彼にとっての新年の始まりと呼ばれるように、彼はこの段階を実際に実現したいと願います。

From the Preparation to the Daily Kabbalah Lesson 9/14/12

ゲームのルールを変更せよ

変化は改善する光によってのみ起こり得ます。この光は我々がいる状態を実現することを促進させるために勝手に訪れます。それは絶え間なく我々を照らしながらその照度を強めます。言い換えれば、それは絶え間なく明るくなり、レシモット(思い出すこと・回想)を明らかにし、変化させ、強めます。そして、こうして我々は自分たちが変化していると感じます。

我々が何かをしたいとき、何かを明きらかにするとき、技術を開発するとき、そして、進展するとき、それらはすべてレシモットに従っています。レシモットが我々をやむを得ず行動させるのです。突如としてニュートンは重力の法則を発見し、突如としてアインシュタインは相対性理論を展開し、さらにまた他の科学者が現れては新しい発見をし、そのように世界は進展します。良い人や悪い人、異なる人々が現れ、あたかも彼らが世界を進展させているように思えます。そのように我々は光の影響下でレシモットが発達するさなか暮らしているのです。

しかし、我々は、この光が我々の利己的な欲求を強めるために照らすのではなく、利己的な欲求を変え、是正し、授与したいという欲求に変化させるために照らすよう、この光を呼び起こすことを望みます。我々は自分たち自身の力で「努力」というものをしなくてはなりません。我々が自分たち自身の欲求を変えなくてはならないので、この行為は自発的なものです。我々の中で、つまり我々の欲求の中で隠されているスピリチュアルなスパークを用いて我々は我々の変化を起こしており、それは、物事が違った形になれること、我々が自分たちの欲求の異なった使い方ができること、そして、他者を利用するのではなく他者のために行動して他者への愛と授与を達成できることの理解を助けます。

光は我々のレシモットを照らし続け、我々にできることは自分たちに対するその影響を変えることだけです。もし我々がなんとかしてこの問題を理解して取り上げるのなら、我々の中で引き起こされるレシモ(レシモットの単数形)を我々が受け取りの形ではなくて授与の形で使うために実現させる程度にまで、我々のために明るくなる光は、我々の中に変革を遂行することによって、そのような結果をもたらします。

したがって、すべては我々次第です。たとえ我々が、どのような状態にあろうと、つまり絶えず我々の中で明かされるレシモットの内にあろうと、どれくらい我々が受け取りではなく授与の形でレシモットを本能的に実現したいのかによって決まるのです。

もし我々がレシモットを本当に実現したいなら、我々の行為は少なくとも二つの部分に分かれます。まずは、我々が自分たち同士のつながりに取り組むために集合します。我々が達成したい我々同士のつながりは、全体魂を作るための粉々になった魂たちのつながりに似ています。これが私たちのゴールであるためです。これは欲求からの見方、つまり器からの見方です。光の見地からすると、我々は1つの光に我々の中で明るくなること、我々をつなげること、我々のためにクリエーターを明らかにすることを望みます。すなわち、我々のあいだで明かされる、授与の総体的に集合した力のことです。

これが、なぜ我々がカバラの本の中でつながろうとする人々から成るグループ内で実行される行為について読むのかということの理由です。ゾハールの書がこれらの行為、このシステムについて最も完璧な方法で言い表すので、全ての本のなかで最も効果的なのはゾハールの書です。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 8/26/12, The Zohar

嫉妬は欠点ではない

質問:カバリストは嫉妬を、人がこの世界から脱出してスピリチュアルな世界に入ることを助ける性質のものとしています。本当に、なぜ私は他者を妬むべきなのですか? 結局、誰もが特別で誰もがその人独自の道をたどっています。なぜ他の人のユニークさ(唯一性)が私を嫉妬させ、私の道において私を力づけるべきなのですか?

答え:私は、嫉妬や肉体的欲望や尊敬への欲求を、目的を持って自分の内に呼び起こします。それは他者の成功を妬んだり尊敬を追い求めるような、普通の人についてのことではありません。この世界では私達はあらゆる種類のナンセンスに嫉妬し、つまらない物を本当に欲しています。私は、その反対に、生活に必要なものだけを手に入れ、残り全ては無視します。私が全ての基本的必要物を持っているとき、私はスピリチュアルな仕事のために自分を構築し、このフレームワークの中で私は嫉妬のような道具を使います。

もしそうでなければ、私は前進のための何ものも持たないでしょう。嫉妬、肉体的欲望、尊敬は3つのエゴイスティック・アプローチです。そして私の内にそれらなしで、私に何の仕事ができるでしょうか? この世界から私を連れ出すのは、これらの3つの特質なのです。それはBYA世界を脱してアツィルート世界に入るようなものです。

それで、もし私がスピリチュアルな仕事をしたいと思うなら、私は他人の仕事を見て、彼らの前に自分を無にします。それから私は、彼らを私達の世代の最も偉大な人々として見ます。彼らは、はるか先まで進んでおり、彼らは(すでに)是正の終わりを達成しており、そして私は彼らを妬みます。もし私が妬まないなら、私に力はなく、動くことができません。私は前進するためのすべての力を自分のエゴから受け取ります。正しい意図を伴う正しい前進、それは物質の中に包まれた形態が光によって私の元にもたらされることを意味します。そしてその物質によって私は上昇するのですが、その物質自体とは私自身のエゴのことです。

質問:しかし、どのようにして私は正しい意図を嫉妬から守ることができますか?

答え:それは、その意図が築かれる、嫉妬、肉体的欲望、そして尊敬への欲求によります。あなたはその嫉妬をクリエイターへの嫉妬に転換し、尊敬への欲求をクリエイターのための尊敬に転換し、衝動への肉体的欲求を彼(クリエイター)への密着に転換します。そうでなければ、あなたは何を是正するのですか? あなたは何を建てるのですか、雲の中に空想的なお城ですか?

質問:しかし依然、私が嫉妬すると、その(嫉妬の)火が私を焼き尽くします。

答え:そうではありません。あなたは制限の後に、嫉妬、肉欲、尊敬欲求が起こるのを許すのです。その制限とは、もはやあなたのためではなく、理解し「作業場」を決めるためです。全てがコントロール下になければなりません。そうでなければ、あなたは始めることさえすべきではありません。

手短に言えば、やってみなさい。嫉妬に陥ることを恐れてはなりません。それに取り組み始めなさい。もしあなたが友達を嫉妬するなら幸運なことです。それは良いことです。結局、私達は前進のための他の力を持っていません。もし私が環境なしに一人だけで生きるのなら、私は一匹の動物のようなものでしょう。他方、もし社会が、私に欠けているものを友達が持っていることを、私に常に見せつけ続けることによって、私を駆り立て刺激するなら、それは人生において私の前進を助けます。私はまさに、私に良い例を提供し私が嫉妬するような、特別な環境を必要としているのです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 9/12/12, “Peace in the World”

「心の賢者」とは誰?

質問:バール・ハスラムが書いている「心の賢者」とは誰を指しているのですか?

答え:「心の賢者」とは、より高い「知恵」−「ホフマー」に向けて、心を開く道を探し求めている人のことです。それはユニティ(統一)の知恵であり、他者とつながることによって得られます。

私達は心(ハート)でつながることを望み、様々な願望をつなげることを望み、そして全ての心と全ての願望の総計の中から、つながる準備のできたものだけを選びます。そしてそれらの願望の間にコネクションをつくることによって、その中で私達が行動し始めることを望むところの共通のネットワークを創造します。

このネットワークの内側にいる間は、私達はどの願望が誰のものだったかについて忘れます。なぜならそれは今や私達に共通のシステムだからです。それから私達はその中に、ホフマーの光を感じ始め、それゆえ「心の賢者」と呼ばれます。結局、私達は心(ハート)のつながりの中でホフマー(知恵)の光を明らかにします。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 9/11/12, Panim Meirot UMasbirot

一つのボルトが世界の破壊を引き起こす

バール・ハスラム著「世界における平和」:そして社会における一人一人すべての個人は、一つの機械の中で幾つもの他の歯車につながっている一つの歯車のようなものです。そしてこの一つの歯車は機械の中にもそれ自身にも運動の自由は持っていません。それはただ、その機械が機械本来の役割を果たそうとする方向へ向けて、他の歯車達の動きに合わせて回り続けるのです。

あなたがエンジンの中の一つのボルトであると考えてみましょう。そのあなたが壊れるとします。その結果、あなたと一緒にエンジン全体も故障します。それで、その自動車と中の乗客は動くことができません。また他の乗客を乗せた自動車の道まで塞いでしまいます。ただ一つの小さなボルトが原因でこの全てが引き起こされます。似たような出来事が、かつてイギリス軍にありました。乗馬の馬蹄が壊れたために王様が戦闘に負けてしまったのです。その馬は片足を引きずって歩き、これが戦士達の士気を挫き、敗北へ導いたのでした。後になって彼らは、爪がひとつ割れたことが、彼らの敗北と何千という死の理由であることが分かりました。

それで、一つのボルトの価値とは何でしょうか? それは、もしそれが壊れたり適切に機能しなかったときに引き起こしうる、全てのダメージ分の価値があります。ここから、あなたは、自分の価値・特質に従って、世界にとって価値があることが分かります。なぜなら私達はあなたによって苦しむからです。しかしながら、もしあなたが自分の仕事をするのなら、そのとき私達は是正の終わりに到達するでしょう。これは、あなたが私達にとって大切な存在であり、実際、値を付けられない程であることを意味します。というのも全ての物が(小さなボルトである)あなたに依存しているからです。別の言葉で言えば、誰もが、その貢献と、起こしうる損害に応じて、世界全体の価値があるのです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 9/10/12, “Peace in the World”