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量ではなく質

質問:今のところ、僅かな人々だけが、カバラの知恵に惹き付けられています。私達は普及活動を続けることで、新しい心の点(複数)の目覚めを期待すべきでしょうか?

答え:この質問への正確な答えを私は持っていません。私はカバリスト達によって書かれなかった事柄を決め付けたいと思いません。

あなたは、一部の者は量的に強く、他の者は質的に強いということを理解すべきです。このように言われています。「あなた達は国々の間で少数である。」将来でさえ、世界中のグループの友人達はそれほど多くならないでしょう。またサポーターも多くはならないでしょう。(サポーターである)より広範囲の人々のサークルは、カバラの知恵を志向することはなく、私達と全く同じように感じることはありませんが、しかし私達に近く、耳を傾け、従います。

私達の強みは、数ではなく、高さであり、理解であり、神性の認知とつながりにあります。私達を通して、まるで稲妻のジグザグのように、広大な講堂向けの、様々な忠告、プログラム、イベント計画が、天から地に降りてくるでしょう。それから、おそらくは他に選択肢がないために、または人々が私達を信じ始めるために、または他の理由によって、彼らは私達のメッセージに馴染み、受け入れるでしょう。

バール・ハスラムが言ったように、もし盲目の人々の列の先頭に、少なくとも一人、目の見える人がいれば、彼らは、最後には必ずゴールに到達するという完全な信頼を持って、彼の後に従うべきです。私はここに深刻な変化があるだろうとは思いません。私達はレクチャーを提供し、ラウンドテーブルをセットし、キャンパスをオープンします。しかし、私達がこれをするのは、人々を自分の組織に引っ張り込みたいからではありません。反対に、私達は「彼らのテリトリー」で仕事をしなければならず、特殊な事柄ではなく、一般的で通常の是正メソッドを伝えなければなりません。

「スクリーン」、「光」、「器」、「パルツフィーム」そして「制限」などの言葉は一般向けではありません。人々は、物質生活を楽なものにする、ユニティ(団結)について知る必要があります。

これが一般聴衆への私達のメッセージです。私達はカバラや「上層の物事」を彼らに注入してはなりません。私達は「人々の心臓の鼓動」に合わせて、人々と「同じ目線」で話さなければなりません。それは彼らを心配させる事についてであり、子育てや他の日常生活の問題といった、彼らの「欠乏」部分について話をすることです。私達は少しだけ彼らの欲求を強調し、「それらを静める」ツール ー私達の方法論ー があることを示すべきです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 8/1/12, “Introduction to The Book of Zohar

620倍に拡大する顕微鏡下の自分の悪意

全ての出来事が人に明かされる理由は、その人の不完全な知覚、まだ是正されていない感覚のせいです。世界はその人の知覚と理解に従って不完全なものとして描かれます。しかし我々は、この不完全状態(欠陥)が外の世界にあるのではなく、自分たち自身の中にあると理解すべきです。

現在の世界危機は我々の周囲ではなく、我々の知覚の中だけにおいて生じます。しかし我々が自分たち自身を是正すれば、途端に外の問題の全ては消えて無くなります。その理由は、世界がそれ自体で存在しているのではなく、我々の感覚の中においてのみ存在しているためです。世界は我々の内側にあるのです。我々が私たち自身の性質を是正すればすぐに全ての災害や問題、あらしや危機は消えて無くなります。この何1つも存在していません。上層の光は単に現実の全てを満たしているだけなのです…。

真実と偽りの違いは、人の内側だけにあります。最初は与えられたすべての打撃(不慮の災害・不意の衝撃)を明確にすることにより、その人はそれらに目的と理由があると理解すべきです。その理由を意味する「わたしは初めである」、そしてその目的を意味する「わたしは終わりである」と記されているように。これらの打撃は、自分自身を是正することを可能にし、現実に対する自分の知覚が正しくないことを悟らせるためにやってくるのです。

それは「協力者・仲間」のように働きます。この悪(不正)が人の中に残ったとしたら、それがその人によって明らかにされることが決してないからです。しかし、悪が外側で明かされる理由から、あたかもそれがその人に反しているようであり、その結果その人がそれを認識することができるのです。我々のエゴは、この悪を最も目立つ形で他人の中に見る能力を与えることにより、この悪を何倍も拡大して見せるのです。

我々は自分たちの悪をまるで虫眼鏡を通すかのように620倍も拡大して見ています。これが悪を明らかにすることを手助けし、それを「協力者・仲間」と呼ぶのです。

私はこの悪を他人の中で明らかにします。しかしそれは反対であって、自分の中にあり、それゆえに自分自身を是正できると私は理解します。人は正しい知覚を有しているのか常に自分自身をチェックしなくてはなりません:その人はすぐに外側に見えるすべての悪をひっくり返し、自分自身の中でその悪を見て、是正しなくてはならないのです。

したがって私が自分自身の外側にあるものと自分を同一視するとき、この特質が自分にとって良いと分かります。私はそれを受け入れ、自分自身を是正することによってその中に参加しています。そのおかげで、私は自分自身をグループ、他者、そしてクリエーターに照らし合わせてチェックできるのです。

外側の現実を知覚することは、内観して自分の中にある悪を見つけることと、破壊されたのは世界ではなく自分であると理解することに役立つということが判明します。このようにして自分の悪が明かされるからです。私は自分自身を是正することによって全世界を是正するのです。このことを「自分自身と全世界を価値のある天秤の皿の方へ判決すること」と呼びます。

我々がこのことを理解し消化できるようになることを願いましょう。この実態に気付いて、この正しくて健全なアプローチを世界全体、全ての人々に伝えれるように。それなら、人間の是正によってすべての問題を解決することができます。最初の難しさは、自分のアプローチを変えることです。我々は、世界を是正する代わりに、自分たち自身を是正すべきだと理解すべきなのです。

カバラの知恵によると、我々の周囲に見える全世界は我々の内面的な性質をまるで鏡のように映し出しているということです。しかし、そのことをシンプルにするために我々は人々に、後で世界を正すことができるように最初に自分自身を正すべきだと説明すべきです。その理由は、不正な人は不正な世界を築き、正された人は正された世界を築くためです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 8/2/12, Writings of Baal HaSulam

クリエイターとタンゴを踊る

私達が達成しなければならない唯一のことは、「彼以外に誰も存在しない」という状態です。これはそれとは反対のことによってのみ、つまり、いわゆる「反対する助け」と呼ばれるものによってのみ達成されます。クリエイターは私達に様々に異なる妨害を送ってきます。それは異なる複数の力から来るように見え、見知らぬもの、クリエイターに反するものであり、偶然のように見えます。その妨害はランダムに見えます。それは不純の力、ファラオ、この世全体のことです。私達はこれら無関係の源が、全ての問題の原因であると考えます。

しかし私達はこの感情を克服し、私達は全ての出来事の中にクリエイターを明らかにしていかなければならない、という考えを常に抱かなければなりません。もし私達が、この世の全ての出来事の中に彼(クリエイター)を見るならば、私達はそれらの出来事の根源と、クリエイターの方法と態度を見始めます。このようにしてクリエイターは、とても秘密的で巧妙な方法で、彼が誰かを私達に示すことで、私達に教えます。

クリエイターは彼自身を隠したり現したり、交互に何度も繰り返しながら、私達と遊んでいます。彼が隠されたとき、私達はこの隠された状態を、この人生では不快な出来事として感じます。しかし私達は、これが単なる人形劇に過ぎず、全ては一人の偉大なディレクターによって運営されていることを発見しなければなりません。リアルに見えるものはただの人形です。自然の鉱物、植物、動物しかり、そしてこの世で生きている人々しかりです。彼らは生きており、自分自身で動くことができ、自由意志を持ち、独立して行動しているように見えます。しかしもし私達が、この世は生命のない包み紙のようなものであり、上層の力だけがそれに生命を与えているものとして見るならば、私達はクリエイターの啓示により近づくことでしょう。

この仕事は単純ではなく、幾多の困難を克服することによってのみ可能です。それを成し遂げるために私達は友人達からの支援、いわゆる相互保証を必要をします。相互保証とは、人がこの仕事を忘れることのないようにし、持続的に人を「彼以外に誰も存在しない」という考えに維持します。

人が弱さや絶望を感じるときは、これらの感情もまたクリエイターから送られてきたことを理解しなければなりません。クリエイターは今彼と遊んでいるのです。人は直ちに彼(クリエイター)との対話を始めなければなりません。そして内的意味を解明し始めなければなりません。それが私達がクリエイターと直接対面する、より率直なやり方です。全てのこれらの努力は結局は人を「涙の門」に連れていきます。これは、彼が多くの他の欲求に支配されているにも関わらず、それらの欲求の中心のどこかで、彼自身に打ち勝ちクリエイターへの愛と畏怖に至らせるひとつの欲求が、一瞬現れることを意味します。クリエイターは実際、彼(クリエイター)を隠している全ての無関係の考えや状況の中で、明らかにされます。

人は、彼にとってはリアルで独立しているように見えても、実際は想像上のものである、全ての人生の形態の中に、クリエイターの力を見るようベストを尽くさなければなりません。そして何故クリエイターがそうしたのか理解するよう努めなくてはなりません。そうするために、彼は今起こっていることを調べ、この全てを発見しなければなりません。結局、クリエイターは、自分が人に明らかにされる、という唯一つの意図を持っています。

これらの努力のお陰で、人は、彼に対するクリエイターの態度の性質について学びます。彼はクリエイターの行為からクリエイターを知ります。クリエイターは隠蔽(concealment :隠すこと, 隠された状態)を通じて隠れます。それはあたかも、どのように人自身もまた自分を隠したり現したりすべきか教えるために、その人と遊んでいるようなことです。クリエイターが明らかにされるときは、人は自分の力によってこの啓示に達したと考えることのないように彼自身を隠さなければなりません。だから彼は自分をマサッフ(スクリーン)で覆わなければなりません。

クリエイターが隠されるとき、人は彼(クリエイター)を発見することをしきりに願わなければなりません。こうしてそれは、お互いに一歩前に出れば、一歩下がるというような相互の仕事になります。それはまるで一緒にタンゴを踊っているかのようです。一旦クリエイター側が動けば、創られた存在側も動く。そのように彼らは隠蔽(隠れた状態)と啓示(明かされた状態)を創造します。彼らはお互いの間に、安定したマサッフを構築します。

人のエゴはそのマサッフの後ろに隠されています。一方、彼、すなわち彼の心の複数の欲求はエゴを越えて昇り、マサッフを越えて昇り、クリエイターの前で明らかにされます。その時、クリエイターもまた同じように、その人の前に明らかにされます。

これが起こる瞬間、「涙の門」は開きます。その後、人はこのゲームを理解し、受け入れ、彼が接触しているクリエイターの大きな重要性を知り、幸せになります。そしてそれからは、人は、それがどれほど困難で、どれほど困惑させるものであっても、人生の全ての出来事を喜んで受け入れることが可能になります。結局、彼がコツコツと全ての努力を積み重ねて、ひとつの大きな総量まで築きあげることができるのも、これらのお陰なのです。

From the Preparation to the Daily Kabbalah Lesson 8/3/12

愛は人生を飾り台無しにもする

私の妻は私の鏡です。結局、私はパートナーを決して見ません。むしろ彼または彼女の中に、私の特質の反映を見ます。例えば、私は中国で受け入れられている美の基準を理解しません。私は真に美しいという評判を持っている女性を見て不思議に思います。私なら彼女を美しいと呼ぶことはないでしょう。私のセンスでは、彼女の顔は丸過ぎ、彼女の眼は狭過ぎ、彼女の髪はストレート過ぎです。私には全て魅力的には見えません。

しかし、かつて私は中国人記者による「ミス・アジア」国際美人コンテストについての記事を読んだ時、そこでは眼が大き過ぎるという理由で、中国ではその女性は勝利できないであろうと書かれていました。私は、私達の美の知覚は何と異なるのだろうと、ただ唖然としました。全く逆なのです。こういうわけで私達はお互いを理解することができません。

当然の結果として、私は目の前の女性を見て、全ての私の美に関するアイデアを彼女に投影します。そして、もし私がそれらの上に上昇しないならば、それは私達の全ての関係に影響するでしょう。私は彼女を、彼女の本当の特質と共に、ありのままに知覚しようとせず、彼女の中に私の特質、私のセンスの反映を見るでしょう。

人がある人物をバイアス無しに見るとき、彼または彼女が美しいかどうか決めることは全く不可能です。どんな母親にでも聞いてみなさい、彼女は自分の子供以上にかわいい子供は世界にはいないと言うでしょう。「愛は全ての罪を覆う」と言われている通りです。

そして反対に、私達のエゴ、憎しみは全ての美を損なうでしょう。私が憎む人物は外観も耐えられないものになります。そして客観的になって、私の基準に従って、彼や彼女が綺麗な顔に見えるということを認める準備ができても、私は別の理由でそれを憎んだりします。

人間だけがそのような態度を示します。動物は美を見ません。動物は、それぞれの他の力を重んじます、生殖能力や、健康な子供を産み、彼らが独り立ちするまで育て上げることです。

しかしながら人間は、美の観念によって台無しにされます。真実は、これは美ではなく私のエゴの実演です。反対側(相手)に提示する特別な条件です。それは物理的肉体の必要最小限の要求を超過しています。

もし私達がお互いを合理的に自然に見たならば、私は自分の前に健康的な力強い女性を見て、結婚しようと思うでしょう。結局、私は彼女が家を良く保つだろうことを見ます。過去において、人々はこの単純な利己的な原理に基いて伴侶を選んだものでした。または社会的立場や富を検討に入れました。人々は美には十分な注意を払いませんでした。しかし単純な実際的な理由、すなわち人生にとって価値あるもの、に基いて伴侶を選択したものでした。

更にしばしば、若い人々ではなく、両親でさえカップルの相手選びや仲人役をしたものでした。これは多くの文化で習慣となっていました。また若い人々は助言を求めて、賢く尊敬されている人物の元へ向かったりしました。そして私達の時代になって、私達は突如、特有なやり方で修正を行うように強いる、歪んだ状況に至っています。

今日私達はお互いを愛しているかどうかだけ考えます。全ての映画はそのような愛についてだけ語ります。以前はそのようなものではありませんでした。私達は100年、200年前人々がどのように生きていたか理解しません。愛や相互の魅力は視界にありませんでした。性的魅力は役割を果たしましたが、それは今日の私達がいう愛の概念で意味するものではありません。それはまさにごく最近に発達してきたものであり、私達の人生全体を台無しにしました。それゆえ、もし私達がそれを正しく使用し、「愛で全ての罪を覆う」のならば、そしてもし私達が、他者を愛したり憎んだりする衝動を特定の方法で扱うならば、私達は成功するでしょう。

From a “Talk on Integral Upbringing” 7/31/2012 

終わりのない道

バール・ハスラム「ゾハールの書の序章 第55項」:これは彼が、彼自身の受け取る意志の純粋さの程度に従って、NRNHYと呼ばれる、光と魂の段階を達成するからである。そして彼が達成する段階それぞれにおいて、その段階の光が彼の浄化を助ける。このようにして、彼は、創造の思想の最終目的の楽しさを達成するまで、各段階を上昇する。

質問:「与えるために受け取る」レベルは、全ての魂にとって重要ですか?

答え:イエスでもありノーでもあります。それは(魂の)合体によって間接的に達成されることも可能です。なぜなら私達は、完全で統合された一つのアナログなシステムについて話をしているからです。そのシステムの中では、全ての人が他の全ての人に繋がっており、ホログラフィー画像のように全ての人の中にシステム全体のパターンが存在しています。

重要な点は、この画像の中で私の役割は何か、ということです。私はこの全体的な「身体」において、「脚」なのか「頭」なのか「心臓」なのか、それとも他の器官なのでしょうか?私は確実に全てを達成するでしょう、しかしまた私は独立して操作することにより、このシステムの私の役割部分を活発に達成します。

私は私自身の欠乏を持っており、また他の全ての人から獲得する欠乏もあります。私の要因に由来する私自身があり、そして他の全員が存在します。そのため私達の達成は全く同じものではありません。全ての人が、一個の全体として、システム全体を達成し、アイン・ソフ(無限)の中に存在します。しかし同時に、全ての人が、誰もが異なる開始点にいるために、他者を「妬み」ます。このことも仕事と是正を要求します。

その後、私達は、しばらくの間私達はそれについて何も知らない、あるレベルに上昇します。発達は続き、どこかで消えます。器は成長し私達の知らない何かへ変化しなければならないでしょう...

質問:なぜ人は創造の思想を達成しなければならないのでしょうか?

答え:なぜなら、それが上層のクリエイターの欲求だからです。創造の思想とはクリエイターです。

私達の言葉は不正確ですが、私達はそれを使わなければなりません。クリエイターと呼ばれる、達成不可能なリアリティがあると言われています。彼は達成不可能です。しかし創造の思想が存在し、それは私達に対する彼の態度を意味します。

彼の私達についての思想の結果として、何かが成されました。彼は受け取る欲求を創造し、それについて様々異なる事を成しました。しかしポイントは私達はこの受け取る欲求に留まるべきということではありません。欲求と光は唯一の2つの属性-受け取りと授与-です。彼は、最終的にはそれら両者の上に私達を上昇させるために、それらを選択しました。

これは私達が受け取りの上に上昇するだけでなく、授与の上にも上昇することを意味しています。なぜなら誰も他者無しには存在できないだろうからです。私達は彼の創造の思想を理解し、今日私達が語ることができないものまでより高く上昇しなければなりません。なぜなら私達はそれが何か知らないからです。

これは私達を未知の終わりへ導く達成の道です。私達の欲求において、それより高い何ものも達成することはできません。ここで私達はギマール・ティクン(是正の終了)を超えたものについて話しています。そうだとしても、私達はこれが真にクリエイターに相応しいゴールの場所であることを理解しなければなりません。私達が通過するプロセスを明らかにすることによって、私達は、彼の私達に対する態度は彼の存在するレベル以下ではなく、それについて私達は何も知らない、と言わなければなりません。というのも私達の枝が派生するところの根でさえ、それから引き出されてはいないからです。

それで、これを知ることで、私達はまた今日私達がどこにいるかを理解すべきです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 8/01/12, “Introduction to the Book of Zohar