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620倍に拡大する顕微鏡下の自分の悪意

全ての出来事が人に明かされる理由は、その人の不完全な知覚、まだ是正されていない感覚のせいです。世界はその人の知覚と理解に従って不完全なものとして描かれます。しかし我々は、この不完全状態(欠陥)が外の世界にあるのではなく、自分たち自身の中にあると理解すべきです。

現在の世界危機は我々の周囲ではなく、我々の知覚の中だけにおいて生じます。しかし我々が自分たち自身を是正すれば、途端に外の問題の全ては消えて無くなります。その理由は、世界がそれ自体で存在しているのではなく、我々の感覚の中においてのみ存在しているためです。世界は我々の内側にあるのです。我々が私たち自身の性質を是正すればすぐに全ての災害や問題、あらしや危機は消えて無くなります。この何1つも存在していません。上層の光は単に現実の全てを満たしているだけなのです…。

真実と偽りの違いは、人の内側だけにあります。最初は与えられたすべての打撃(不慮の災害・不意の衝撃)を明確にすることにより、その人はそれらに目的と理由があると理解すべきです。その理由を意味する「わたしは初めである」、そしてその目的を意味する「わたしは終わりである」と記されているように。これらの打撃は、自分自身を是正することを可能にし、現実に対する自分の知覚が正しくないことを悟らせるためにやってくるのです。

それは「協力者・仲間」のように働きます。この悪(不正)が人の中に残ったとしたら、それがその人によって明らかにされることが決してないからです。しかし、悪が外側で明かされる理由から、あたかもそれがその人に反しているようであり、その結果その人がそれを認識することができるのです。我々のエゴは、この悪を最も目立つ形で他人の中に見る能力を与えることにより、この悪を何倍も拡大して見せるのです。

我々は自分たちの悪をまるで虫眼鏡を通すかのように620倍も拡大して見ています。これが悪を明らかにすることを手助けし、それを「協力者・仲間」と呼ぶのです。

私はこの悪を他人の中で明らかにします。しかしそれは反対であって、自分の中にあり、それゆえに自分自身を是正できると私は理解します。人は正しい知覚を有しているのか常に自分自身をチェックしなくてはなりません:その人はすぐに外側に見えるすべての悪をひっくり返し、自分自身の中でその悪を見て、是正しなくてはならないのです。

したがって私が自分自身の外側にあるものと自分を同一視するとき、この特質が自分にとって良いと分かります。私はそれを受け入れ、自分自身を是正することによってその中に参加しています。そのおかげで、私は自分自身をグループ、他者、そしてクリエーターに照らし合わせてチェックできるのです。

外側の現実を知覚することは、内観して自分の中にある悪を見つけることと、破壊されたのは世界ではなく自分であると理解することに役立つということが判明します。このようにして自分の悪が明かされるからです。私は自分自身を是正することによって全世界を是正するのです。このことを「自分自身と全世界を価値のある天秤の皿の方へ判決すること」と呼びます。

我々がこのことを理解し消化できるようになることを願いましょう。この実態に気付いて、この正しくて健全なアプローチを世界全体、全ての人々に伝えれるように。それなら、人間の是正によってすべての問題を解決することができます。最初の難しさは、自分のアプローチを変えることです。我々は、世界を是正する代わりに、自分たち自身を是正すべきだと理解すべきなのです。

カバラの知恵によると、我々の周囲に見える全世界は我々の内面的な性質をまるで鏡のように映し出しているということです。しかし、そのことをシンプルにするために我々は人々に、後で世界を正すことができるように最初に自分自身を正すべきだと説明すべきです。その理由は、不正な人は不正な世界を築き、正された人は正された世界を築くためです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 8/2/12, Writings of Baal HaSulam

クリエイターとタンゴを踊る

私達が達成しなければならない唯一のことは、「彼以外に誰も存在しない」という状態です。これはそれとは反対のことによってのみ、つまり、いわゆる「反対する助け」と呼ばれるものによってのみ達成されます。クリエイターは私達に様々に異なる妨害を送ってきます。それは異なる複数の力から来るように見え、見知らぬもの、クリエイターに反するものであり、偶然のように見えます。その妨害はランダムに見えます。それは不純の力、ファラオ、この世全体のことです。私達はこれら無関係の源が、全ての問題の原因であると考えます。

しかし私達はこの感情を克服し、私達は全ての出来事の中にクリエイターを明らかにしていかなければならない、という考えを常に抱かなければなりません。もし私達が、この世の全ての出来事の中に彼(クリエイター)を見るならば、私達はそれらの出来事の根源と、クリエイターの方法と態度を見始めます。このようにしてクリエイターは、とても秘密的で巧妙な方法で、彼が誰かを私達に示すことで、私達に教えます。

クリエイターは彼自身を隠したり現したり、交互に何度も繰り返しながら、私達と遊んでいます。彼が隠されたとき、私達はこの隠された状態を、この人生では不快な出来事として感じます。しかし私達は、これが単なる人形劇に過ぎず、全ては一人の偉大なディレクターによって運営されていることを発見しなければなりません。リアルに見えるものはただの人形です。自然の鉱物、植物、動物しかり、そしてこの世で生きている人々しかりです。彼らは生きており、自分自身で動くことができ、自由意志を持ち、独立して行動しているように見えます。しかしもし私達が、この世は生命のない包み紙のようなものであり、上層の力だけがそれに生命を与えているものとして見るならば、私達はクリエイターの啓示により近づくことでしょう。

この仕事は単純ではなく、幾多の困難を克服することによってのみ可能です。それを成し遂げるために私達は友人達からの支援、いわゆる相互保証を必要をします。相互保証とは、人がこの仕事を忘れることのないようにし、持続的に人を「彼以外に誰も存在しない」という考えに維持します。

人が弱さや絶望を感じるときは、これらの感情もまたクリエイターから送られてきたことを理解しなければなりません。クリエイターは今彼と遊んでいるのです。人は直ちに彼(クリエイター)との対話を始めなければなりません。そして内的意味を解明し始めなければなりません。それが私達がクリエイターと直接対面する、より率直なやり方です。全てのこれらの努力は結局は人を「涙の門」に連れていきます。これは、彼が多くの他の欲求に支配されているにも関わらず、それらの欲求の中心のどこかで、彼自身に打ち勝ちクリエイターへの愛と畏怖に至らせるひとつの欲求が、一瞬現れることを意味します。クリエイターは実際、彼(クリエイター)を隠している全ての無関係の考えや状況の中で、明らかにされます。

人は、彼にとってはリアルで独立しているように見えても、実際は想像上のものである、全ての人生の形態の中に、クリエイターの力を見るようベストを尽くさなければなりません。そして何故クリエイターがそうしたのか理解するよう努めなくてはなりません。そうするために、彼は今起こっていることを調べ、この全てを発見しなければなりません。結局、クリエイターは、自分が人に明らかにされる、という唯一つの意図を持っています。

これらの努力のお陰で、人は、彼に対するクリエイターの態度の性質について学びます。彼はクリエイターの行為からクリエイターを知ります。クリエイターは隠蔽(concealment :隠すこと, 隠された状態)を通じて隠れます。それはあたかも、どのように人自身もまた自分を隠したり現したりすべきか教えるために、その人と遊んでいるようなことです。クリエイターが明らかにされるときは、人は自分の力によってこの啓示に達したと考えることのないように彼自身を隠さなければなりません。だから彼は自分をマサッフ(スクリーン)で覆わなければなりません。

クリエイターが隠されるとき、人は彼(クリエイター)を発見することをしきりに願わなければなりません。こうしてそれは、お互いに一歩前に出れば、一歩下がるというような相互の仕事になります。それはまるで一緒にタンゴを踊っているかのようです。一旦クリエイター側が動けば、創られた存在側も動く。そのように彼らは隠蔽(隠れた状態)と啓示(明かされた状態)を創造します。彼らはお互いの間に、安定したマサッフを構築します。

人のエゴはそのマサッフの後ろに隠されています。一方、彼、すなわち彼の心の複数の欲求はエゴを越えて昇り、マサッフを越えて昇り、クリエイターの前で明らかにされます。その時、クリエイターもまた同じように、その人の前に明らかにされます。

これが起こる瞬間、「涙の門」は開きます。その後、人はこのゲームを理解し、受け入れ、彼が接触しているクリエイターの大きな重要性を知り、幸せになります。そしてそれからは、人は、それがどれほど困難で、どれほど困惑させるものであっても、人生の全ての出来事を喜んで受け入れることが可能になります。結局、彼がコツコツと全ての努力を積み重ねて、ひとつの大きな総量まで築きあげることができるのも、これらのお陰なのです。

From the Preparation to the Daily Kabbalah Lesson 8/3/12