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授与の模範を示す

私たちは、育った環境によってどれだけ自分たちの人生が成形されてきたのかを想像すらできません。私たちは常に、利己的な願望の中で利益を上げる仕方の模範にさらされてきました。これが他の人たちの行動のしかたであり、それらから自分たちも同じようにするように倣いました。私たちは授与的な行為の仕方の模範を一つも受け取ったことが無いのです!これは、私たちが“善い”振舞いを教えられ、または特定の振舞いが私たちのためになると説明されてきたにも拘らずです。

言い換えれば、私たちはいつも利己的な模範を受けてきたのです。利己的な利得を確実にするのが目的の受け取ることのプログラムは、単に私たちの中に“埋め込まれた”だけなのです。そして習慣は第二の天性となり、私はもう他の方法で世界を見ることが出来なくなるのです。あるいは、もし私が世界を受け取ることでなく、授与の波で見たなら、私は全く違う景色を見ることになるかもしれません。もしかしたら、私は現在識別できないものを見れるようになるかもしれません。

私はただ単に成長してきて、私のようになりました。今、私の性質を変えるための、大きな作業が必要なのです。しかし、もしかしたら子供たちが違うように成長する時代が来るかもしれません。親、家族達、そして社会の全般、誰もがお互いと全く違いように付き合う環境の中で:授与的に。そしたら子供たちはこの授与的な具合で影響されます。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 6/6/10, Article, “Concerning the Importance of Society”

私は何を持って行くのか?

私が受けた質問:私の魂は、現世で学んだ全てを覚えているのでしょうか?来世でも私はカバラを学び続け、またグループにやって来るのでしょうか?

私の答え:人が現世から持って行く、唯一のものは、彼が歩んだ霊的な道です;これは消えません。結局、霊性から観てみれば、私たちは同一の現実に存在し続けるからです。しかしそれは私たちから少々隠されています。

私はそのようには感じませんが、私は常に自分の魂の中に位置しており、私はそれと作業し、色々な状態を経験します。これらの全ては自分の永遠の魂の中で起こります。今、私が物理的な肉体と、自分の周りの世界を見る事実は自分の霊的状態の“蜃気楼”なのです。

もし私が今、内面的に努力すれば、私は次の輪廻をより高い霊的状態から始め、カバラのグループにより早くやって来るのです。そして勉強において、より成功できます。以前の全ての行路は私の内に、霊的遺伝子(Reshimot)として残ります;それは消えません。霊的世界では何も消滅しないのです;私たちの世界でしか事は消えません。なぜならこの世界の全てはいつか消滅するからです。それまでの合間、私が利己的な願望を通して獲得した物は一切残りません。なぜなら願望そのものが消滅し、外面的な覆いが残るだけだからです。

毎回、魂が新たな輪廻を体験するとき、それの能力と自身の是正の必要性に従い、自身の為に環境を造ります。なぜ、私はこの環境に存在し、他のではないのでしょうか?その理由は、私の魂がこれを必要とするからです。肉体においては計算はありません;それらはこの世界、魂の是正に必要な全ての状況の中、お互いに連結し合い、存在しているのです。

一方、肉体は考慮に入れられていません。実に、それは全く存在しないのです;それは、私たちにこの形態で現れる仮想的な幻想なのです。実際的には、魂しか存在しません。しかし、私たちはそれを感じることができません。そしてそれの発展が肉体に何が起こるのかを左右します。

そのため、バール・ハスラムは『ゾハール書の序文』の最後に、魂の是正のみ、私たちは自分らの世界の是正を補助でき、この物質的世界をもっと優しく知覚できるのです。この世界で起こる全ての犯行は、魂の是正の必要性の結果なのです。同時に、この世界での行動や是正はありません:魂を通してのみ、変化は可能なのです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 6/2/10, Article “Which Degree Should One Acheive

MAN:全てを含む祈り

私が受けた質問:私たちはMANMayin Nukvin,祈り)を上げなければなりません。この行為は願望の内で行われるのですか?

私の答え:MANの意味は、私が授与の力を求めるということです。Malchutの内から、私はBinaに向かい、Binaに授与の能力を求めます。しかしながら、私はこの祈り(MAN)で自分が満ちるので十分だ、という状態に達する必要があります;私はMANを上げれることに喜びを感じるのです。

トーラーはこの状態をどう記述しているでしょうか?それはあなたが“日光”の中へとやって来る時です。“日中”とは、あなたは何も無く、MAN(授与への願望)を捜しに砂漠の中をさまよってきて、それを見つけるのです。その時、それはあなたを元気づけ、あなたの全ての味覚を満足させるのです。それはあなたが望む全てを含んでいるのです。

それはどのような“味”でしょうか?それは何処から来ているのでしょうか?MANとは何?それはBinaからあなたにやって来るのです。それはクリエーターに嘆願できるという、単なる可能性だけでも、あなたには充分という時です:“私は彼との繋がりがある。私は彼に求めることができる。私にそれ以外、何も重要なことはない。”

しかしながら、私はクリエーターを明らかにすることのできる願望を自分の内に持つべきではないでしょうか?いいえ、私は単に彼への熱望を持てるだけで満足するのです。これが現在の私の充足を構成しています。グループを通じたクリエーターとの繋がりが自分を満たすのです。

“しかし、それはどのような繋がりなのですか?何を得れるというのでしょう?あなたには何も無い。本当です。が、しかし、私はMANを上げて、彼に哀願できますか?これが可能なら、それで充分なのです。これを“砂漠をさまよう”といい、“Hafetz Hesed”(何も望まない者)の特性を獲得するのです。砂漠の中では、あなたは全てを剥奪されていて、本当に自分の為には何も望まないのです。ですが、それによってあなたは授与の特性による是正、クリエーターとの類似を獲得し、これがあなたの充足になるのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/6/10, The Zohar