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カバラの本の主人公

私が受けた質問:本には、必ずストーリーの主人公がいます。私がカバラの本を読み、あらゆる内面的な力を想像しようと試みているのですが、そこには主要な力と、そう重要ではない、二次的な力があるのでしょうか?

私の答え:あなたがカバラの本を読むとき、大切なのはあなたの理解力ではなく、あなたの努力です。霊性の開示とは予盾したプロセスなのです。一方では、開示とは親密で、自分の内で起こる個人的なプロセスです。また他方では、開示を獲得する為に必要な力は、他人の魂から、私の彼らとの繋がりを通じてやってくるのです。それは予盾しているように見えます。私にとっては、自分の霊性への願望が、クリエーター、そして是正する光と一対一に留まるほうがよいのです。しかしながら、もし私が霊性を明らかにしたいのであれば、グループを通じてやってくる授与の光のみにて、私はそうすることが出来るのです。

それなので、私は自分のハートの点(霊性への願望)を使ってカバラの本を読み、そして読んでいる最中、本に説明してあることをそのまま自分の内で描くことを望むのです。しかし、私が経験する変化の基準となる材料は何でしょうか?この実践的な作業の為に、私は環境、グループを与えられるのです。お互い相互に繋がり合いながら、私が彼らに正しく関わり、彼らもお返しに同じようにしてのみ、私たちは自分たちの願い、MANを上げることが出来るのです。

そのお返しに、私は是正する光を受け取るのです;つまり私は、本に何が書かれているのかを理解できる、正しい心構えを了承するのです。そのとき、私は自分自身を変え始め、他人との本当の繋がりを理解するのです。この時点では既に、他人との結合を確立することは問題ではありません。彼らは私の世界となり、私はそれを通じ、読んだことを実施するのです;他人と繫がることにより、私は本が描いている私たちの繋がり、授与の性質を感じるのです。

今のところ、私は解決の出来ない予盾のみを感じます。私は自分とクリエーター、自分と本、自分と光、自分と自分、自分と世界、自分とグループが関係を持つことに同意しますが、私は常に全てが自分から始まることを要求しているのです! しかし、ここでは、私は彼らに奉公する為に他人と繋がる必要があるのです。彼らの利益の為だけに行動するのです。これは私に全く不明瞭なことなのです。

一体どうしたら、私たちの間に違いを感じず、注意を自分から他人へと変換できるのでしょう?どうすれば自分の心を開き、与えることが出来るのでしょうか? 最初、私はエゴイズムを使い、カバラの本を開きますが、後ほど、自分に授与の力が必要であると理解し始めます。そのとき、私は授与の感覚を受け取る為に、グループに懇願するのです。そして私がこの性質を持っていず、また、持てないと悟るとき、私は自分を本の通りに変わることを補助してくれる、是正する光が必要だと理解するのです。

私たちがグループから受け取る共有の願望を持つことで、皆全員がMANを上げるのです。そのお返しに、私は是正の光を受け取り、カバラの本に違ったふうに関わり始めるのです。私は、レゴを組み立てていくように、自分を本の指示通りに造ることが出来るのです。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 6/24/10, The Zohar

私たちの課題は、上の者にすがりつくこと

私が受けた質問:スピリチュアリティにおいて、私たちの“上の者”とは誰ですか?

私の答え:私たちはそれを知りません。私たちは、単なる点、精子の一滴、私たちの霊的なReshimo(記録、遺伝子)として、上の者の子宮の中に存在しています。このReshimo以上、私たちには何もないのです!

実際、私たちの肉体、思考、感情は霊的な世界と関係ありませんし、そこに存在しません。霊的な世界では、上の者(無限のMalchut)の子宮と、その内部にいる私達だけなのです。そして、私たち各自はReshimo(0/1、Shoresh Aviut/Aleph Hitlabshut)また、言い換えれば、ハートの点なのです。

ハートの点としての私たちの課題とは、霊的な子宮の壁にすがりつく努力をすることです!精子が吸収される三日間を始めに、胎芽(私達)にとっての最初の問題は、子宮の壁に付着することです。子宮に付着することは、上の者との第一の接触を成立することです。

これを成し遂げるには、私たちは上の者の前で、自分たちを無効にしなければなりません。しかし、この上の者とは何処にいるのでしょう?この子宮の壁?それは一体何なんでしょう?上層の者とはカバリスティック・グループ、私の環境なのです!このようにして上の者はクリエーターを私に明らかにするのです。

このように、グループと私がいて、あらゆる障害にも拘わらず、それに付着するのです。私はグループの授与へ願望の全体の力を受け入れます。そして私は、彼らの前で自分を無効にすることで、それら全てを進んで受け入れる準備が出来るのです。

私が自分自身をグループに付着する時、私の授与の意思の強度であるAviutが成長し始め、私の中で不快な感覚を生み出します:失望、エゴイズムの増大、それと心の重荷です。しかし、私は更に深く中に向わないといけないのです。まるでヒルのように、“子宮の壁”であるグループにくっつくのです。それなら、私たちの間で、点を通してではなく、私の中へ流れ始める“血”が通うチューブを通して、第一の結合が現れます。この結合は、今のところ、Inanimate、無生物(語“Dam”-血、は“Domem”-無生物から由来する)のレベルにあります。しかし、既に私は上の者から霊的な支持を受け取っているのです。

これらの全ては、自分のグループとの繋がりを通して起こります。私が霊的な世界へ入れる“壁”は、それ以外ないのです!

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 6/24/10, Article Preface to the Sulam Commentary”

聞き入られる祈り

上の者は常に完全な状態にあり、それは授与以外、何も必要としません。それは機嫌を感じたり、又、変えたりするような何かではありません。むしろ、それは定められた不変の法則、システムなのです。あなたがこの法則と提携する程度まで、それはあなたに良く影響します。

しかし、もしあなたがそれに従わず、あなたがそれと類似していなければ、それはあなたに悪く作用します。私たちの最初と最後の状態はあらかじめ決まっており、あなたがそれに沿って行こうが、抵抗しようが、理解しようがしまいが、それらは完全に実現化されます。

下の者(あなた)には、一つしか良い機会はありません:このプロセスに意識的に参加し、その為の欲求を上の者に渡すことです。私たちが到達しなければいけないのが、この欲求なのです;私たちには欲求以外に何も必要ないのです!私たちはこの欲求を“上げる”方法も知らなくてはなりません。それを上の者に渡す為にです。上の者は完全な状態にあります;それは常に、下の者が必要する全てを与える準備が出来ています。

下の者とは全ての魂の集まりで、上の者とは一つです:一つの光、一つの創造の思想、または一つの力。もし、下の者が上の者に似たいと願うのなら(つまり、結合し、一つとなることに積極的なら)、上の者へその欲求を上げることが出来るのです。上の者はこの願い以外聞き入れないのです。これが祈り、すなわちMANと呼ばれ、それはたった一つの統一体(single whole)になる欲求なのです。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 6/23/10, “Preface to the Sulam Commentary”

これは人間の為の作業である

スピリチュアルな道はやさしくありません。それは多くの上昇と下降から成ります。それは平坦な、舗装された道ではありません:それは、くぼみだらけなのです。あなたが前に進むまで、あなたは様々な問題や障害に対処し、長い時間、同じ場所で踏み止まることになります。道中で一歩ごとに、厄介な問題と災難が起こります:最初はタイヤのパンク、次はエンジンが壊れ、そしてガス欠、次に居眠り運転、などなど。しかし、私たちにどうすることができるでしょう?これが私たちの道なのです。

突然、あなたのロバ(ヘブライ語の“ロバ”“Hamor”は“Homer”-「物質・利己的な物質」という言葉から来ています)が道の真ん中で立ち止まり、行く手をふさいでしまいます。あなたはそれを退かさなければなりません。しかし、どうしたらロバを動かせるでしょう?あなたはそれを叩きますが、それは動きません。ニンジンで誘い出そうとしますが、追ってきません;それには更に強力な餌が必要なのです。あなたがロバを自分の背中の上にしょって移動させるか、または、カバリストが勧めるように、ロバの歯にパンチでもしないと、あなたは前に進めないのです。

このように、新しい問題は絶えず起こっていき、ついに生命の木が倒れ、あなたの行路に横たわり道を遮ります。そのあと、あなたは止まり、横たわった木の回りを行かなければなりません。その時点で、雲が道に下りてきて、濃い霧を発生させ、あなたが何処へ向っているのか、又、あなたの前に道さえあるのか、分からなくします。

この種の作業は特殊なものです。それはとても困難で、人間のレベルを獲得したい人、本当に人間になりたい者だけの為に選ばれるものなのです。それは、選ばれた人の為に選択された道なのです。

From the Evening Zohar Lesson 6/14/10

光への鍵

もし私が自分のエゴイズムを乗り越え、他人の願望の中へと出てきたなら、私は無限の光を知覚することのできる、無限の霊的な器を受け取ります。これはとても簡単な仕組みです。それは大きなパイプのようで、その中に光が通るのです。このパイプの天辺には弁があり、私はそれを完全に開くことにより、光の流動を著しく変化させることができるのです。この世界では、小さな子供でさえもが蛇口をひねり、水の流動を変化させることが出来ます。スピリチュアリティにて、私は同じことが出来るのです。

私はスピリチュアリティに対し、小さな願望しか持っていません。それは、たった一つのハートの点なのです。しかしながら、もし私が他人の願望へ向かい、自分を魂の共同体へ、それの一つの細胞として含めたなら、私はこの共同体へ授与することになり、その応答として、それは私を保護し始めるのです。それから私はそれの無限の能力を受理するのです。

このゆえに、カバラが私たちに自分たちの願望から出て、他人の願望へ入ることを教えるのは、偶然ではありません。そうすることにより、私たちは、前に持っていたのより、“613”倍大きな能力、霊的な器、そして願望を受け取るのです。以前には、私たちはハートの点しか持っていませんでしたが、今では各自が、体の全体を自分たちの利用のために受け取るのです。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 6/10/10, Introduction to the Study of the Ten Sefirot

私たちは、どうやって自由の箇所をみつけるのか?

私が受けた質問:なぜクリエーターは世界をこのように創ったのですか? なぜ彼は私たちの心や感覚から自分自身を隠すのですか? なぜ彼は私たちを彼および究極の目標と正反対になるように創ったのですか?

私の答え:彼は私たちに自由を与えたかったため、こうしたのです。彼は私たちに、自由選択を通じて彼を明らかにしたいという欲求を持たせたかったのです。彼は私たちが彼のような与える者になりたいと望むようにさせたかったのです。もし最初から私たちがクリエーター、彼そのままを感じていたならば、私たちはそれに反対せず、方法を何も変えたいとは望まないでしょう。

これと同じように私たちは、誰も自分たちを支配するエゴイズムに抵抗したくありません。私たちは利己的なプログラムを自動的に実行します。同様に、もし私たちの中に利他的なプログラムが植えつけられたとしたら、私たちはそれを自動的に実行します。そしたら、私たちは、“自然の自動的な力”、つまり「天使」と呼ばれるようになります。しかしながら、どちらの形態にしても自由はありません。

自由は真ん中(中間)にしかありません。それは不純と神聖の間にあります。この状態をKlipat Nogaといいます。それはTifferetの質の真ん中の三分の一です。クリエーターは、私たちを不安定状態の所に置かなくてはならないのです。私たちが均衡の取り方、どっちへ傾けばいいのか分からなくするためです。私たちは、何が善で何が悪なのか、そして何を選べばよいのか、または何を切望すればよいのか知りません。ここに私たちの自由選択の箇所があります。

私たちは、そのような自由選択の各点から線を成形し、この瞬間から是正の終わりまで前進します。私たちの唯一の課題は、(クリエーターの)隠蔽の程度と形態を理解し、その理由と必要性に気付くことです。この方法で私たちは自分たちを独立した存在へと作り上げます。

クリエーターは私たちの独立以外に目的はありません。結局のところ喜びを与えるためには、独立した創造物が彼に必要です。彼が創造した、彼が全てをコントロールしている機械に対して、彼はどうやってそれを喜ばせることが出来るのでしょうか? しかしながら、創造物が独立する限り、クリエーターはそれを喜ばせることによって喜びを受け取ります。今や彼が喜びを与えられる誰かがいるのです。本当に存在する誰かが。

この理由から、彼は私たちを直ちに善になるようには創らず、最初に無限の世界を与えなかったのです。彼は私たちを彼と正反対に創り、二つの世界の間に置くことを余儀なくされたのです。結局のところ、これら二つの世界の間にある、まさに真ん中のここ、つまりクリエーターと創造物のどちらの支配も働かない、クリエーターと創造物のどちらにも属さないこの中立的な点(箇所)の中でのみ、私たちに自由があるのです。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 6/8/10, Introduction to the Study of the Ten Sefirot

信じるということは感じることである

私が受けた質問:Machsom(スピリチュアル・ワールドへの障壁)を越える前の“信仰”とは何ですか?

私の答え:人がMachsomを越え、霊的世界に入るまでは、彼に信仰はありません。カバラにおける信仰の概念とは、日常生活で習慣的に呼ばれるそれとは全く異ります。カバラでは、これら全ての概念は全く違ったレベルで定義されています。

“信仰”とはクリエーターを知覚することです。もし私がクリエーターを知覚しているのなら、私は彼を信じます。私たちが思っていたものからどれほどその定義が違うのかに注目してください。私たちの日常生活では、信仰とは私たちに見えない何か、あるいは、知ることのできない何かがあたかも本当に実在しているかのように信じることです。

カバラは、これは信仰ではなく、単なる幻想であると告げます。カバラは現実的な本当の内面的感覚のみを信頼します:私がクリエーターを感じる度合いまで、私は自分のエゴに反して努力する力を受け取るのです。一つの力に対するもう一つの力;ネガティブに対してポジティブ。これが私たちが言う“理性の上の信仰”です。それはエゴイズムとその中の感覚よりも上の信仰なのです。私はこれらの全ての上に上がります。なぜなら私は上層の理性と感覚を使うことが出来るからです。しかしながら、もし私がそれらを持っていないのなら、私はどのように作業することが出来るのでしょうか? 他の誰かが伝えた物語に基づいてですか?

これは私たちの言う信仰ではありません。それは人々がこの世界で遊ぶゲームなのです。なぜならそれ以外に自分たちを安心させる方法を知らないからです。信仰を獲得するには、私たちは啓示に到達しなければなりません。カバラの知恵とは、クリエーターの創造物に対する啓示です。これを“信仰”と呼ぶのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/11/10, Shamati #50

和合とは新しい現実である

私が受けた質問:和合(ユニティ)とは何ですか?それは内面的な感覚ですか?それとも何かの力が明らかになることですか?

私の答え:和合とは、私たちには全く解らない、新しい現実のことです。それは私たちが今まで、知覚したことのない霊的な特性、つまり授与の特性を持つ新しい物質です。私たちがこの物質に含まれ、その中で生き始める時、私たちは、まるで別の惑星に自分たちを見つけるように、新しい次元を明らかにします。私たちはこの次元をこの物質の内側、つまり授与の中で明らかにします。

したがって、和合とは単なる相互的な繋がり、良い関係、自信という意味だけではないのです。それは、私たちの世界には存在しない、新しい特性が明らかになるということなのです。私たちがこの特性を獲得し、クリエーターと似通う時、私たちは全てを自分らの知性と感情の中で、彼(主)との結束にて明らかにします。

私たちは和合を達成する以外に何もすることはありません。それは私たちの能力の範囲内で出来るのです。このことに関して、“我等はやるであろう、我等は聞くであろう”と書かれています。この意味は、私たちは様々な行動を起こし、努力し、全力を尽すことが出来るということです。私たちは、カバリスト達が勧めるように、そしてまた、ラバッシュが彼の文章に書くように、一緒に勉強し、結束することができるのです。

しかしながら、私たちはこれにて成功は出来ません。私たちは“そして彼らはこの作業から叫んだ”と表現される状態に達しなければなりません。それは、私たちは和合しなければならないのに、それができない、という内面的な叫びです。この内面的な叫びの状態でのみ、それは起こります。それは真の祈り、真の叫びでなくてはなりません。

私たちは既に全体の土台を造り上げました。後は、私たちが和合の特性に達するだけです。他人との繋がりとして明らかになる、新しい物質が霊的な物質なのです。それはある程度、既に、破壊以前に存在していた、霊的な器なのです。私たちがそれを明らかにする瞬間、つまり私たちが霊的な存在状態を明らにすると、クリエータは明らかになるのです。

そのため、私たちの一人一人と全員が一日中可能な限り一緒に努力してこれだけを気にしなければならないのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/13/10, The Zohar

最大の報酬はそれが見えないこと

私たちは、隠蔽に対しクリエーターにとても感謝するべきです。それ無しでは、私たちは見せられた快楽を絶えず追いかけ回る動物のままに留まるからです。

隠蔽は私が暗闇に留まることを助けてくれます。それは不快ですが、私は隠蔽を通して自分自身を築くのです。その理由から、私たちが正しく前進しているのか、あるいは私たちの行いが報われるのかを見ることができないのです。報酬とは隠蔽の中を歩いていき授与の行為を試みることです。最大の報酬とはこれに対する報酬が見えないことなのです。

さもなければ、私たちはクリエータの支配から出て来れません。隠蔽の中でのみ、私たちは彼に外見上服従していないのです。彼は私たちを見張っていますが、私たちに、彼を明らかにする機会と、無限の世界の制約以後に形成された隠蔽の中での彼の行為の偉大さを明らかにする機会を与えます。

私たちは啓示 [クリエーターが明らかになる事] を求めません。それは人が生来の切望に動機づけられ、動物的な状態へ戻りたいということです。知ることとは私たちに起こりうる最悪のことなのです。もし私たちが知識を“理性の上の信仰”の後に獲得したなら、私たちは受け取りではなく、授与の特質の中で新しい知識を明らかにします。これは既に神性の知識なのです。

しかしながら、私たちはまず制約を行い、向こう側へと通過して、その前ではなく、そこで初めて新しい知識を明らかにするのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/13/10, The Zohar

まやかしの支配から自由になる

私が受けた質問:それはどのようなゲームなのですか?それは友達を最も偉大と認めることですか?

私の答え:それはゲームではありません;それは隠匿を突き抜けることです。私のエゴイズムは他人から自分を、そして自分を他人から隠します:それは、私が無限の世界の全てを見ることを不可能にします。現在、私は無限の世界にいます。が、しかし、私が見るのは、非常に暗い状況です。私のエゴイズムは、醜くて、愚かで、怠惰で、嘘つきな人たちを描きます。しかし、現実にはそれらは全て間違っています;この状況は自分の中、私のエゴイズム内に存ずるのです。もし今、私の深く愛する子供が自分の横にいたなら、どう彼らを見るでしょうか?彼らは私に完璧に見えるでしょう。なぜなら“愛は全ての罪を補う”からです。私は彼らを、彼らの欠点全てを含め、愛するでしょう。

自分のエゴだけが、非難されるべきなのです:自分はそれの向こう側に何も見ません。私の脳の奥には、画面があります。私は、目を通して世界を見ているようですが、それは自分のエゴイズムのプリズムを通して入り、そして自分の脳内の画面に映し出されるのです。全ては私の態度次第であり、それを見るために自分がどう順応するか、なのです。なので、私はグループに対し、彼ら皆を、完全に是正された、今世代で最も偉大な人たちと見るように自分を順応しなければならないのです。

これはゲームなのでしょうか?いいえ、それは単にエゴイズムのまやかしを取り消すことです。それは理性的な行為なのです。私の向こうに、無限の世界があります。そして私は、たった今も既にその中にいるのです。もしあなたが、この平凡な、逆の状態に無限の世界を歪める、全ての殻(Klipot)を剥ぎ落とせば、あなたは無限を知覚するでしょう。

最初は、そのふりをしてみてください。努力してみましょう。私たちを、是正された、大きな、団結した、と見る努力をしましょう。この行為を通し、私たちはとても強力な囲む光を引き寄せ、それが私たちの性質を是正します。私たちはエゴイズムの代わりに、授与を獲得するのです。これはとてもシンプルな原理で、まったく現実的です;ここに神秘主義はありません。私たちは自らの努力で、私たちが是正された状態を見ようと試みて、その度合いで、私たちは是正されたシステムに含まれている、内面的な力を受け取るのです。私たちの願望がそれを作動するように促進するのです。これらが是正に向う、実践的な行動なのです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 6/10/10, “The Importance of the Association