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スピリチュアル的な成長の為に正しい環境に身を植えつける

包む光は人のスピリチュアリティへの欲求の程度だけしか彼を影響しません。人はこの欲求をカバリスティック・グループから受け取ります。グループは彼の環境であり、彼と同じレベルに存在します―地面に植えられた種のように、彼はそれから全てを吸収するのです。

種そのものは死んでいます。適当な土に埋めてあげて初めてそれは生まれます。環境の結果のみによって活気づくのです。適切な環境なしでは、種はただの生命のない、情報を持つ遺伝子です。適切な環境の中で、太陽や他の自然の力に影響を受け始め、種は芽生えます。

全体的な上層の力の影響を受ける為に、種は環境と相互に作用し合わなければなりません。これは人の場合でも同じです。種が適当な土と好都合な条件でしか育ち、成長しないのと全く同じように、人は彼または彼女の環境から影響を受けます。もしある人が正しい環境に身を置かないのならば、彼はスピリチュアル的な進歩を期待しないほうがいいでしょう。

この事実は皆さんにもはっきりしているはずです。人は環境から吸収する程度だけ“太陽”と“酸素”(必須な力)を受け取ります。それは彼を“木”へと成長させます。まもなく、この力は彼の肉眼ではっきり見えなくても、彼の中で感じられるようなります。私たちは皆、一つの全体的システムで繋がっているので、他の人たちも自分の中に本当の、はっきりと感じられる霊的な刺激が起きていると感じるようになります: 器の中の光です。

From the Daily Kabbalah Lesson 5/14/10, Article “Make Yourself a Rav and Buy Yourself a Friend”

ラビ・シモンとの旅

受けた質問: なぜゾハールの著者たちは何度も同じ事を繰り返し説明するのですか?基本を説明したら先へと進んでも良いんじゃないですか?なぜ彼らは私たちにはっきりしている事、例えば、各要素は四つの部分から成り、それを三本の線でかけると、やがては十二の部分となる事をあんなに書くのですか?

私の答え: 何度も繰り返す事によって、ゾハールの著者たちは既にスクリーンと霊的な器(Kelim)を所持する者たちに、彼らがそれを読んでいる間、本書に記述してある働きを行う機会を与えるのです。人はこれらの働きを明らかにし、ラビ・シモンと一緒に、後者がゾハ-ルを書いていた時に行うのです。スピリチュアリティに時間は存在しないので読者は著者と繋がり、子供が大人を掴むように彼の手をしっかり握り、彼と一緒に歩みます。

ラビ・シモンは人を導き、彼に一つずつ働きと特性を見せ、説明し、同じ働きをさまざまな場所で繰り返します。なぜでしょう?その理由は私たちは毎回、自らの快楽を受け取る願望の一定の特性を是正しなければならないからです。

私たちにしてみれば既に充分だと思われます。一体、何回同じ事を復習すればいいのでしょうか?しかしそれは単に私たちがこれらの実際の違いが分からない、そしてまた知覚できないからなのです。名称や題名は同じに見えますが、毎回それらは内面的な定義の新たな見解なのです。こうゆう訳から、私たちはただゾハールの著者に付き添い、何が起こっているのかをより理解する為に彼らと繋がる努力を可能な限りすべきなのです。

From the Evening Zohar Lesson 5/5/10

新しい世界への移行

新聞記事(TheMarker.com):我々は全く知らない、進化における新しいフェーズに突入している。我々が唯一知ることは、その変化が何よりも問題をはらむ状態であり、それがいつかよりよい将来に導かせるとしても、途方もなく大きい損失と苦難を伴うかもしれないということである。ならば、どのようにして我々はこのフェーズを過ごせばよいのだろうか?

私のコメント:人々は正しく考え始めています。実際に私達は利己的な受け取りに基づいた世界から、愛他的な授与に基づいた世界に向かって移行しています。私達はこの新しい種類の世界が必要であるという理解に向かって移行しています。そして、それは私達が終わる事のない苦しみの道を通ってそこに至るか、又は、自然の計画を理解することを通じてそこに至るのかには関係しません。前者の苦難の道とは、私達が出発し始めたものです。

生じている出来事の理由を人々に説明することにより、私達は自分たち自身と社会を変える必要性と、世界に対する私達の態度を変える必要性があるという認識を早めることができます。しかし、私達がこの地球上で生き続ける為には、エゴ(利己)が害悪であり、それを利他、愛、授与に変えなくてはならないという単なる理解だけでは足りません。私達には私達自身を変化させる力が必要であり、この力は私達の世界には存在していないのです。

現段階では、私達はなぜ人間性の是正方法を有するカバラの科学が、とても特異な方法で私達に与えられたのか理解し始めます。私達はこの方法なしに、なぜ本当の内面的変革が不可能であり、よって生き延びることも不可能であるのかを理解し始めます。過去における変革への全試みは、宗教や様々な信仰体系の出現を導かせました。その結果はあまりにも明らかです:悪は残存した。そして、それらと共に発達し続ける。


人生はいつもがピクニックという訳ではない

受け取った質問:ワールド・ゾハール・コンベンション(世界ゾハール集会)が終了したばかりです。私達は集会で千人を超える様々な人種と国籍の人を目にし、その多くが歴史上のステレオタイプを保持していました。意外な事でしたが、たったの20~30時間でこれらの違いは消え、繋がりと愛が現れました。この状態を継続する為に、何が私達には欠けているのでしょうか?

私の答え:集会にて人々は、一体化、インスピレーション、目標の重要性を感じました。しかし、集まりから20時間が過ぎた今、そこでのことがほとんど思い出せません。全ては私達の感覚と記憶から消え去ります。なぜ私達はこのように継続し、この状態のままで居られないのでしょうか?

人生に於ける他の全てのものと同じように、この状態も長く続きません。人のインスピレーションと熱狂はピークに達し、そのあとに鎮静化します。絶えず奮い立った状態で居続けることは不可能です。これは光と願望の反比例する関係によるものです:ある時は光が、またある時は願望が大きくなるのです。それらは交互に大きくなり、これを通じて私達はあたかも右と左の線を繋ぐ中間の線に沿って二つの脚で歩くように前進します。

その二つの線は前に押すという目的でしか繋がることがなく、その後、再び動き始めます。私達は最初に右へ動き、そこで目標の重要性、繋がり、そして継続したいという願望を獲得し、行きます。その後、左から“心の重さ”が現れ、こうして取り組むものができ、また中間の線に戻ります。このようにして私達は前進します。

この理由からこの状態が長く続かないのです。そうでないなら、それは自然に反する事になります。常に強い幸福感の状態でいること以上に好ましくないものはないとさえ言えます。人は、常に“雲の上”に居るというのではなく、自分が進歩し、努力し、そして何らかの内面的抵抗を克服することを感じなくてはなりません。

私達の作業とは、何かを与えて受け取り、そして再び与え、そしてまた受け取ることを敏感に感じる事です。私達は抵抗と行動と達成を感じなくてはなりません。この理由からきつい仕事には、そして、私達の努力の結果を見て達成した事を二三日楽しむ、そのような大きな集会で絶頂に達する困難な準備には、多くの喜びがあるのです。しかしながら、この後に、私達は再び苦労、克服、模索、明瞭化、そして是正の状態にもどらなくてはなりません。いつかまた別の美しい結果に至るために。

その理由は、クリエーターと創造物は二つの相反する属性として、お互いの反対側に立っているからです:受け取りたいという願望、そして、授け与えたいという願望。それらの同等性はそのような相互行為の手段でしか達成されません。べつのやり方で進歩することは不可能です。私達は小さな状態(Katnut)またはHafetz Hesedに留まってはいられません:私達は前に進まなければならないのです!

Post Zohar Convention Lesson 5/11/10


聖なる書物の各文字に生きる

文字は欲求の形態です。クリエーターは楽しみたいという欲求だけを創造しました。そしてその欲求は受け取りと授与の様々な形態を習得します。それにもかかわらず、受け取りの形態はスピリチュアリティーのなかで存在する権利がありません。授与の形態については、クリエーターに類似するもの、すなわちBinaからMalchutまでの様々な授与の種類だけを私達は扱います。

全部を合わせて27個の文字があります:ZAT de Binaからの9個(アレフからテットまで)、Zair Anpinからの9個(ヨッドからツァディックまで)、Malchutのなかに含まれる4個(コフ、レーシュ、シン、タヴ)、そして語末に使われるParsaの上の5文字MaNTZePaCH。これらはクリエーターに、又は正しい行動の手本に似ている物質の形態です。

したがって、私達が本、語、又は文について話すとき、私達はパン生地のように常に変化して様々な形を習得する楽しみたいという欲求について話しているのです。このようにして、クリエーターのようになりたいと切望しながら、私達の欲求はその形態を変化させます。

トーラーの全ての文字を追い、その最初の言葉(はじめに―Beresheet)から最後の言葉(イスラエル)までの文字の並べ替えの全連なりの繰り返しを完了させるとき、人はこれらの形態の全てを獲得し、クリエーターと完全に類似するようになり、最終是正(Final Correction)に到達します。したがって「トーラーの全部をあなたの心に刻みなさい」と言われるのです。心(ハート)とは欲求のことです。トーラーの書、存在している創造物に対するクリエーターの授与の形態のすべて。私達はそれらを自分たちの欲求のうえに書き写さなくてはなりません。そうすれば、私達はクリエーターに類似するでしょう。

豚インフルエンザ、生活水準、瞑想についての質問

質問:カバラは豚インフルエンザのような流行に対抗できますか?

私の答え:はい。それ以外の全てに対することと同様に。

質問:どのようにして適当な生活水準を測るのですか? それは人の是正されたエゴイズムのレベルによりますか? 生活水準以下の暮らしの条件とはなんですか?

私の答え:それはあなたが“人間”段階の存在に前進するにつれ、決定されるでしょう。この段階それ自体が、あなたに必要なものと必要でないものを明示します。それと同じことが全ての人に起こるでしょう。

質問:あなたはカバラには瞑想がないと言いました。しかし、最も重要なカバリストの一人であるラヴ アブラハム・アブラフィア(sec XIII)が何世代も越えて使われてきた瞑想のメソッドをもたらしたということを読みました。これに対するあなたの意見は?

私の答え:彼がそうしたとされているのとは反対に、アブラフィアは瞑想の創始者ではありませんでした。彼はとても現実的なカバリストでした。彼の記述、そして、他のカバリストの記述も同様に理解できないという無能が、そのような素人の印象を作り上げるのです。


鷹の翼に乗って空高く

ワールド・ゾハール・コンベンションは新たなフェーズの始まりを示します。コンベンションは私達を著しく変化させました。私達は如何に世界が最近の出来事の光のなかで変化していることも感じます。その問題はただ激しさを増すだけでしょう。

私達は究極の目的地に到達しなければなりません。想像してください。人類がマラソンコースの上で痛めつけられる走者であって、これらの打撃が人類に力を与え、ゴールまで走り続かせるということを。人類は走ってゴールにたどり着かなくてはなりません。私達には時間制限があり、ゴールに到達する以外に選択肢はありません。私達に選べる事とは、ゴールにたどり着きたいという願望を持って走るか、打撃が来るのを待ってそれらを逃れようとゴールまで走るかだけです。

三番目の道もあります。私達は一つになることで、私達の内部にある力を誘発させ、ゴールまでの上昇を簡単にさせます。それは鷹がヒナを運ぶように私達をその翼に乗せて引き上げてくれます。

しかし、私達は自分たち自身で鷹―Bina―の翼に乗ってこの世界を置き去りにすることはできません。私達は全世界と繋がった状態を保たなくてはなりません。私達が全ての人々のことを考え、自分たちを全ての人々に捧げない限り、私達が上昇することはないでしょう。これは矛盾しているようにも思えます。しかし、世界は崖っぷちに立たされていて、私達は世界が鷹の翼に乗るよう助けなくてはならないのです。

Post Zohar Convention Lesson 5/11/10


あなたに秘密を打ち明けましょう

受け取った質問:全てが言い尽くされ、やり尽くされましたが、目標達成の秘密とは何ですか? カバラの科学に来る人々の数パーセントしかそれを達成できないのなら、それはあるはずです。

私の答え:あなたに秘密を打ち明けましょう:もし人がその道から去ることがないなら、その道の上でその人に何が起きようとも目標を達成します。それ以外に成功の方程式はありません。

人はとてもつらい状態を経験します。人は時に振り返り、自分に起きたすべての事を信じることさえできません。しかしながら、全瞬間で何が起きようとも、人は自分の前に一つの目標だけを見なくてはなりません。そしてこれが成功への鍵です。これ以外に何も重要ではありません。

したがって、人にたった一つのことだけを願うことができます:目標達成において屈しないことです! それ以外には、何も助けになりません。特別な知性や洗練された敏感さ、または熱心な努力、知識、または側にいる友達でさえも。あなたはただ自分の歯で目標をくわえなくてはなりません。何が起きても放さないブルドッグのように。

Post Zohar Convention Lesson 5/11/10

光との最初の遭遇

受け取った質問:あなたの初めてのスピリチュアルな体験、初めての上層の光との遭遇を説明してください。この感覚は何に似ていますか?

私の答え:初めての霊的な体験はすべての人に共通します。なぜなら一般的に人々が同じ状態を経験するからです。人が初めて光と遭遇するとき、彼又は彼女は世界全体が、どんな限りもない一つの暖かい力のような愛で満ちていると感じます。それは暖かくて優しい感覚であり、世界全体がそのように知覚されます。人は自分の周囲にいつもの世界を目にしますが、空気がより濃く、より暖かく、より優しくなったと感じます。そっと優しく扱われているといった感覚があるのです。

そういうものが人に来る最初のスピリチュアルな感覚です。一般的に人はそのことを忘れてしまいます。しかしそれにも関わらず、それは人に何らかの証拠と支えを与え、その人の中に新しい知覚の器(Kelim)を構築し、前進を可能にするために起きるのです。

上層から与えられるこの最初のスピリチュアルな体験の後、これと同じ感覚を自主的に達成するのに人は多大の努力をしなくてはなりません。その後、10億倍も強い感覚が次に来ますが、そのときまでにはすっかりそれらを支配し、理解し、これらの感覚を扱えるようになっています。

まさに初めての印象も含め、そこから始まるこれらすべての印象は、発達している心の中の点の内部で人が感じるものです。それは生理的現象又は心理的及び精神的現象の領域の中ではなく、霊的な知覚の器(Kli)の中にあるのです。

From the 8th lesson at the World Zohar Convention 5/9/10


“目には目、歯には歯”

受け取った質問:全世界で知られるようになったトーラーのなかのことわざがあります:「命には命、目には目、歯には歯」です。 カバラの見地からすると、この意味は何ですか?

私の答え:同じ度合い、同じ段階、そして同じ形で今や破壊があった場所に是正が必要です。今私達は願望の堕落した場所を是正し、使用するのにふさわしくしなくてはなりません。破壊が起きた場所を正しく識別し、正確に同じ場所を是正する必要があります。何故なのでしょうか? 私達はそうすることにより以下を学びます。クリエーターが行ったこと、彼の計画の抜け目なさ、そして、私が彼の助けを要求し彼の作業から学ぶようになるために如何にして彼が全状態で私をつまづかせるのかということです。

是正における全作業はクリエーターの作業と呼ばれます。なぜなら、私が自分の堕落した場所を識別し、彼の手を引いてその場所に連れてきて、それを是正するよう彼に頼むからです。私は事前に、どうやってこの状態が是正されなくてはならないのか想像します。ひとたび彼がそれを是正してくれれば、私は彼を補完し、それによって彼と私が一緒に歩むのです。この様にクリエーターと私達は繋がっています。

もし私が自分の力だけでこの是正ができたなら、私が上層の力との繋がりを持つことはありません。もしクリエーターが私なしにそれをすることができたなら、私は誰なのでしょう? 私の存在の意味とは何なのでしょう? 彼と私がパートナーとして一緒に作業するには、このやり方しかないのです。

クリエーターは壊れた願望(Kelim)を嘆いています。一方では彼はそれを直したいのですが、他方では私の依頼、私の要求、そして何を直すのかそしてどこを直すのかといった正確な指示なしに彼にそうすることはできません。したがって彼と私はこの作業において真のパートナーになるのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 5/4/10, The Zohar