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人生はいつもがピクニックという訳ではない

受け取った質問:ワールド・ゾハール・コンベンション(世界ゾハール集会)が終了したばかりです。私達は集会で千人を超える様々な人種と国籍の人を目にし、その多くが歴史上のステレオタイプを保持していました。意外な事でしたが、たったの20~30時間でこれらの違いは消え、繋がりと愛が現れました。この状態を継続する為に、何が私達には欠けているのでしょうか?

私の答え:集会にて人々は、一体化、インスピレーション、目標の重要性を感じました。しかし、集まりから20時間が過ぎた今、そこでのことがほとんど思い出せません。全ては私達の感覚と記憶から消え去ります。なぜ私達はこのように継続し、この状態のままで居られないのでしょうか?

人生に於ける他の全てのものと同じように、この状態も長く続きません。人のインスピレーションと熱狂はピークに達し、そのあとに鎮静化します。絶えず奮い立った状態で居続けることは不可能です。これは光と願望の反比例する関係によるものです:ある時は光が、またある時は願望が大きくなるのです。それらは交互に大きくなり、これを通じて私達はあたかも右と左の線を繋ぐ中間の線に沿って二つの脚で歩くように前進します。

その二つの線は前に押すという目的でしか繋がることがなく、その後、再び動き始めます。私達は最初に右へ動き、そこで目標の重要性、繋がり、そして継続したいという願望を獲得し、行きます。その後、左から“心の重さ”が現れ、こうして取り組むものができ、また中間の線に戻ります。このようにして私達は前進します。

この理由からこの状態が長く続かないのです。そうでないなら、それは自然に反する事になります。常に強い幸福感の状態でいること以上に好ましくないものはないとさえ言えます。人は、常に“雲の上”に居るというのではなく、自分が進歩し、努力し、そして何らかの内面的抵抗を克服することを感じなくてはなりません。

私達の作業とは、何かを与えて受け取り、そして再び与え、そしてまた受け取ることを敏感に感じる事です。私達は抵抗と行動と達成を感じなくてはなりません。この理由からきつい仕事には、そして、私達の努力の結果を見て達成した事を二三日楽しむ、そのような大きな集会で絶頂に達する困難な準備には、多くの喜びがあるのです。しかしながら、この後に、私達は再び苦労、克服、模索、明瞭化、そして是正の状態にもどらなくてはなりません。いつかまた別の美しい結果に至るために。

その理由は、クリエーターと創造物は二つの相反する属性として、お互いの反対側に立っているからです:受け取りたいという願望、そして、授け与えたいという願望。それらの同等性はそのような相互行為の手段でしか達成されません。べつのやり方で進歩することは不可能です。私達は小さな状態(Katnut)またはHafetz Hesedに留まってはいられません:私達は前に進まなければならないのです!

Post Zohar Convention Lesson 5/11/10


聖なる書物の各文字に生きる

文字は欲求の形態です。クリエーターは楽しみたいという欲求だけを創造しました。そしてその欲求は受け取りと授与の様々な形態を習得します。それにもかかわらず、受け取りの形態はスピリチュアリティーのなかで存在する権利がありません。授与の形態については、クリエーターに類似するもの、すなわちBinaからMalchutまでの様々な授与の種類だけを私達は扱います。

全部を合わせて27個の文字があります:ZAT de Binaからの9個(アレフからテットまで)、Zair Anpinからの9個(ヨッドからツァディックまで)、Malchutのなかに含まれる4個(コフ、レーシュ、シン、タヴ)、そして語末に使われるParsaの上の5文字MaNTZePaCH。これらはクリエーターに、又は正しい行動の手本に似ている物質の形態です。

したがって、私達が本、語、又は文について話すとき、私達はパン生地のように常に変化して様々な形を習得する楽しみたいという欲求について話しているのです。このようにして、クリエーターのようになりたいと切望しながら、私達の欲求はその形態を変化させます。

トーラーの全ての文字を追い、その最初の言葉(はじめに―Beresheet)から最後の言葉(イスラエル)までの文字の並べ替えの全連なりの繰り返しを完了させるとき、人はこれらの形態の全てを獲得し、クリエーターと完全に類似するようになり、最終是正(Final Correction)に到達します。したがって「トーラーの全部をあなたの心に刻みなさい」と言われるのです。心(ハート)とは欲求のことです。トーラーの書、存在している創造物に対するクリエーターの授与の形態のすべて。私達はそれらを自分たちの欲求のうえに書き写さなくてはなりません。そうすれば、私達はクリエーターに類似するでしょう。