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この世界はただのスタート地点である

クリエーターはこの物質的世界を創っていません。それは私たちの想像の中にしか存在しません。なぜなら、私たちはエゴイズムの境界の内にいるからです。私たちが授与へと移行した瞬間、上層の現実(私たちが実際に存在し、発達しているところ)は私たちにその姿を露にします。

私たちに常時、スピリチュアリティを獲得することにおける選択の自由を与えるために、この下層の物質的世界は存在し続けます。この世界で私たちは仕事へ行ったり、買い物へ出かけますが、私たちは永住している場所、家、そして家族があると知っています。スピリチュアリティでも同じことが当てはまります:私たちが永久に存在する場所があるのです。私たちは霊性の階段を上がったり下がったりしますが、最も低いレベルの存在(私たちの世界)は私たちに常に約束されているのです。

この世界は架空であって、私たちの想像の中以外、存在しません。それは私たちに、授与のための行為を自ら行うのを可能にしてくれる、基本的な地点なのです。クリエーターは皆全員に同じ映画を見せるため、私たちが同じ現実内に存在することを可能にしているのです。その理由のため、最も高等なカバリストも、最も低脳な愚か者も、同じ物質的世界を知覚するのです。

聡明な人は世界の見方が少し違い、理解も深い、とされていますが、一般的に私たちは皆、同じ映像を見ます。ある人が特殊な特質を持っているとしてもそれは変わりません。なぜならそれと霊性には何も共通点がないからです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 5/26/10, The Zohar

魂のホログラフィック・ピクチャー

クリエーターは私たちの魂に団結を要求してきます。堕落の全体は、私たちのお互いへの隔たり、そして他人同士と感じることから構成されています。その一方、是正とは私たちが自分たちを一つの体と知覚することにあります。しかしながら、もし私たちが自分たちのことを単に、別々の部分が一緒になって働いていると知覚したなら、それでは不十分なのです。

自分は全員の中に、そして全員は他の全員の中に合併しなければならない。そして、そのように永遠までし続けなければならないのです! それは、各自の成分が他の全てを含む、ホログラフィーの絵と似ています。

私たちは未だ、知覚的にこれを想像できません。なぜなら私たちはそのような状況と全く反対であるからです。器の破壊により、私たちはお互いと完全に離れていると感じています。他の皆と結合し、総一体となる“私”無しに、どうやってお互いに合併し合うことができるのか、私たちには理解すらできません。

私たちのハートの点が結合するとき、この物質的身体の架空的な現実は消えていきます;私たちの願望しか残りません。私たち各自が、自分たちの統一化をより正しく想像しようと試みるほど、唯一の本当の現実の絵に近づきます。私たちはただ、それに接近し、明らかにすればいいのです。このようして私たちは徐々に、自分たちを囲む物質的な幻想から癒えていくのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 5/30/10, The Zohar

世界を反転させる心理的変化

私が受けた質問:なぜバール・ハスラムは、授与への移行は単なる心理的な問題だと書くのですか?そうならば、なぜこれはそんなに難しいことなのですか?

私の答え:心理的な問題とは、全ての出来事が、あなたへの意図的な外部的影響として関与することから成ります。その後、全ての世界は私たちのために繋がり合います。とはいえ、今のところ、それは私たちに心理的な問題を提出します。

私たちは、自分たちから少し引き離れる努力する必要があります。まるで自分たちのことを脇から観察し、分析するように(酔っ払いはこれに似た複視の体験をします)。私たちは絶え間なく自分たちを分析し、私たちの心、思考、人生全般で起こる全てをクリエーターが充足、制御して、私たちと遊んでいるのだと言うべきなのです。“私”は私でなく、“彼”のゲームで、私はそれを自分で見ているのです。

私はそうせざるをえないのです。私は完全に“彼”が自分に与える、内部的な充足に突き動かされています。しかしながら、“彼”は私に、自分を観察でき、“全て自分の考えること、感じることは彼からくる”と言うことができる、追加の点を与えました。

質問の続き:人はどうやってこの状態を乗り越えられますか?

私の答え:あなたは“彼”に自分の本質を変えることを要求する必要があります。クリエーターは常時あなたに特別な外部的状況を与えます。あなたは“彼”にあなたの中の状況(あなたの性質)を変えるように求め、それらを外部のと(クリエーターの性質)調和をもたらすようにするのです。

私たちが特定の、耐えることができない外部的状況の場に踏み入ったと 想定してください。普通、このケースの場合、私たちは自分たちの都合に合うよう、外部的状況を変えたいと望むでしょう。しかしながら、“心理的変化”とは外部的状況を変えるのではなく、外部性は変えられないのだから、自分たちを外部的状況に合わせ、私たち自身を変える必要があると理解することです。私たちは新しい環境と似通うように自分らを変えることができ、そしたらその中に落ち着きを感じられるのです。これは心理的な変化で、今日、人類が経験している変化への新しいアプローチなのです。

今でも、ずっとそうであったように、私たちは自分たちを囲む自然を変えることを望み、世界を私たちの理解に従って整えようとしています。しかし、私たちは違うプログラムを開始しており、この世界(これら全てを整えたクリエーター)は私たちにクリエーターの方向へと自分たちを変化させることを要求してきているのです。

新しい状況が私の周りで現れてきています:暗闇が世界にやってきて、全ては収縮、混乱していき、不透明、そして恐ろしくなっていきます。しかし、自分の周りの世界が変わることを望むのではなく、私は自分が変わることを求めなければいけません。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 5/28/10, Shamati #16

授与に光を見ることを学ぶ

私たちは光を受け入れることのできない物質から創られています。それゆえに、私たちが存在する唯一の方法はBina、クリエーターに入り込むことです。Binaは私たちに働きかけ、“彼女”へと上昇させます。彼女の下の部分(AHP)が私たちへと降りてきて、私たちには不快な暗闇として感じられます。“彼女”は授与と慈悲の光(Hassadim)で私たちを照らしますが、私たちは授与することを望まないため、それを暗闇と感じます。

私たちは、一緒に努力するとき、囲む光の補助により、授与を望ましいと見るための準備をします。徐々につれ、私たちは自分たちの中に、上層の者を認識し始めます。私たちは“彼”がまさしく上層の者であると実感し、私たちは授与の性質を霊性として尊重し始めるのです。それから私たちは自らを取り消し、“彼”と結合する心構えができます。私たちは、母の卵巣の中の精子の一滴のように、自分たちの利己的な願望を失することに同意し、上層の者にくっつきます。

そしたら、上層の者は私たちを引き上げることができます;“彼”と結合の用意が出来ている願望を引き上げることができます。上の何処へ?霊的世界に上、下の場所があるのでしょうか?いいえ、“彼”はここ、私たちの中にて授与の性質を一段と養っていくのです。

これが“彼”が私たちを引き上げるという意味です。なぜなら私たちが授与の性質を上昇と見なすからです。私たちが達成する全てのステップは、お互いの更なる密接な結合と、私たちから構築される、是正してもらうために上層の者に提出できるシステムによるものなのです。この方法で、私たちはBinaへと上昇し、“彼女”に含まれている光はこの世界へと下方へ広がるのです。

従い、上層の者にくっつけることができる願望は、自らを無効にできるだけでなく、授与の性質を実現し、それを吸収して使用することができるのです。もちろん意思は“受け取る”のままですが、その意図が変わるのです。喜びを受け取る意思から創られた私たちの世界もそうです;それも上層からの光輝を徐々に受け取ります-そこに授与の意思が現れるためです。

From the 2nd Part of the Daily Kabbalah Lesson 5/26/10, “The Preface to the Sulam Commentary”

ただお互いにすがりつきなさい!

光は“彼”と似ている私たちの意思に作用します。この意思と光の一致の程度を信仰と呼ぶのです。もし私が全くの利己的な願望や目的でカバラの資料を読むとするなら、それらが私に作用することはありません。

ハートの点とは、壊れている点です;それは人をスピリチュアリティへと引き寄せますが、その理由は単に彼の気分が悪いからというだけです。彼はまだ“善を行う善”、授与と愛を求めていません。今までのところ彼は、ただ単にこの地上での人生に満足していないだけです:未来は暗く、人生の目的がないのです。これらの事は単に、スピリチュアリティを捜し求めることに対する利己的なモチベーションを与えます。しかし光はそのような願望に、遥か遠くからでさえも作用しません。光はその信仰の程度によって作用します。つまり、それは人における授与に対する切望のみに作用するのです。

信仰はその人の行路と目的への献身によって試されます。人は自身における授与の性質を獲得しようとする意図の純度を確かめなければいけません。信仰そのもの、授与の特性は努力の報酬として上層から与えられます。人にその値があるとき、“夜”は終わり、彼は“日の光”を見ることになるのです。

もし人がトーラーを自分の利己的な充足のために利用すれば、それは彼にとって死の毒薬となります。これが意味するのは、彼は“霊的に死んでいる”だけでなく、死に“薬漬け”にされるということです。なぜなら、彼はそれを霊的な生だと思うからです!彼は自分のエゴイズムを更に高め、偽りのなかで生きていることが信じれないのです。

真実へ出て行きましょう:もし私たちが全てを一緒に行い、もし皆が他の全員から、囲む光(Ohr Makif)が自分に作用することをたやすく要求できる力を受け取ることが出来れば、行路は素晴らしい冒険になるでしょう。ただお互いにすがりつきなさい!

もしあなたが一人のままでいると、直ちにあなたの前に壁が生じます。もしあなたが他の人たちと一緒に歩むために団結すれば、壁は直ちに崩れ落ち、幅広なハイウェイへと一面に広がります。壁かハイウェイのどちらかしかないのです。選択肢は一瞬一瞬、友の間にいるのか、そうでないのかです。全ては上層の光で行われます;私たちはこの唯一の条件だけを守らなくてはならないのです。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 5/27/10, “Introduction to the Study of the Ten Sefirot

カバラのグループはスピリチュアルなブースターである

カバラのグループは一つの目標に基づき統合します:隣人への愛と、それを通じてクリエーターへの愛に達することです。この意味とは、愛と授与の特質を愛するということです。この目標に同意する皆全員が自身の小さな力、すなわち上層から与えられたハートの点をグループに加えます。

誰も自分の力のみでスピリチュアルに入ることはできません。私たちの力をあわせてのみそれが可能になるのです。言い換えれば、グループに加わり、私たち自身すなわち私たちのエゴイズム(利己主義)を無にすることです。授与の力を授かる目的でグループに加わり、私たちのエゴイズムを無にすることは、スピリチュアリティへの第一歩です。グループ内での作業は物質的世界からから霊性へと、グループによって創られる開口部を通じて移行する作業です。

グループとは手段です。グループがドライバーやスパナのようにあなたを修理するのではなく、あなた自身がグループを作業のために使わなくてはならないのです。グループとは、あなたの目の前にある霊的なお手本です。それはあなたに物質的な形態で与えられいますが、私たちはそれを肉体のグループとしてではなく、魂の集まりとして関わってそれを霊的な形態へと変えます。

私たちはクループの中で霊的な空間を造ります。私たちは私達自身を無にし、私達のハートの点を他の全ての点と繋ぎ合わせて霊的な器、すなわちクリを造ります。私は自分の小さな力しかグループに加えませんが、私はそれから“620”倍受け取ります。スピリチュアリティは私が見つけるこの結合と私たちの共同の力の正確な場所で、より内面的な段階として明らかになっていきます。

私たちは自分らの物質的な性質、すなわち動物的なエゴイズムを無にします。私たちの“ロバ”(語・Hamor<ロバ>は、語・Homer<物質>に由来します)は下にとどまり、私たちはそれを乗り越え、統合します。だから私たちは以前のものより“620”倍大きな、一つの大きい力を獲得します。この力は、確実に皆に自分の中の動物を打ち負かすことをさせてくれるでしょう。この方法により魂の破壊以前に存在しなかった新しい霊的な器を創ります。私たちはこの器の中、私たちの間に、共同の授与の特質を明らかにし、その中でクリエーターを明らかにするのです。

第一の霊的段階へ上ることによって、私は自分の一つの力を加え、620倍多く受け取ります。そして新しい段階へと上がるにつれ、この大きな力をグループに加え、620倍多く受け取ります。私の最初の魂の点は620倍に膨れ上がることになり、以降、一段ずつ上っていくことにより、更に大きく成長していきます。グループがマルフート、すなわちシェヒナになるのです。

この理由のためグループは一つの意見 – 授与へと達する欲求、クリエーターとの結合 – で統合しなけれなりません。これが霊的なパーツーフの“頭”(ロシュ)を創ります。私たちの共同の器が霊的世界なのですが、その体験は各自独特で、それは彼らの魂の本質的な初期段階の点によります。魂は消えず、それどころか620x620x 620x・・・倍に成長します。私たちはこのようにして、クリエーターが明らかなる霊的な世界を私たちの内側に造ります。その場所以外に他はありません。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 5/20/10, Article “The Purpose of Society”

無限の光、それとも無限の闇?

カバラを勉強する事で、私たちは光そのものと接触します。同じ目標を求める他者と一緒に勉強して結束することで、私たちはすべての人が一つの全体になり内面的単一性の中に存在する無限の世界のマルフトと積極的に波長を合わせます。私たちが積極的にこの状態の中に存在したいと望むことによって、私たちはこの完璧な状態から、隠れた光を引き寄せるのです。それによって私たちの霊的発達を早めることになります。このことを「真っすぐにクリエーター」を切望すること、つまり Isra-El になるといい、「時間を早める」者、勉強と強いて主を明らかにすることを通じ自ら光を自身に引き寄せる者といいます。また「時間を照らす」者、つまり光が自身を授与に向わせることを望む者という意味もあります。(神聖とは授与の特質です)

カバリスティック・グループの中で勉強することは私たちに、自身の発達の形態とその発達の速度をコントロールできる「手綱」、または「車のハンドル」を、光から独立するにつれ与えてくれます。しかしその一方で光はとても強力であり、私たちの全員に共通のものだけでなく、個人の発達のプログラムも持っています。したがって、私たちが自ら自身の発達を早めようとすると突然私たちがどれほどこの光に、そして、その光が私たちを目覚めさせることに、依存しているのかを感じはじめます。光の助けだけが私たちの前進を可能にするのです。

光は私を上昇させたり下降させたりします。それは動物のレベルとこの物質的人生の全てを乗り越えて「クリエーターと類似する」つまり人間となることへの願望を私の中で呼び覚まします。私は光が自分に影響を及ぼしはじめることを待ちます。私は可能な限り勉強とグループと普及活動に自身を同調させ、闇と隠蔽の間にたまった問いを全て解くために、光に完全に身を任せる準備をします。

私は夜明けを待つ雄鶏とコウモリの寓話にでてくる「雄鶏」のようです。私は自分のために光が来て道を照らすのを待っています。そして光が来たときに私は喜びます。しかし光が来ることに対して準備ができていない「コウモリ」は上層からの目覚めを暗闇と知覚します。

私たちは一つの共通のシステムに存在しますが、光が来るのを待つ人しか、それを望ましいものであると知覚しません;彼らにとってはそれは本当に光なのです。それに対し、光と授与と隣人を愛すことへ近づくことを願わない者たちは、この世界でより大きな危機や問題を感じるでしょう。

私たちは皆、無限の世界に存在していますが、全ては私たちの準備にかかっています。私たちは無限の光、または無限の暗闇のどちらかをそこで感じることができます。あるいは、あたかも意識を失って生物的存在をただ実行するかのように全く何も感じないことができます。全ては人間(クリエーターの愛と授与にの中でクリエーターに「類似する」という意味)になりたいという私たちの願望次第です

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 5/21/10, Shamati #241

新しい世界への窓

人は生まれつき自分のみを愛します。これが私たちの性質であり、それに対してどうすることもできません。私たちは常にその中に生き、そこから踏み出すことはできません。私たちの全ての行いは自分自身だけのためです。さもなければ前に進めません。したがって私には、自分の性質に逆らって振る舞う、その性質を変化させる外からの力が必要なのです。

私の全ての思考やエネルギーは、自分を満たして安楽を得るために働き続けています。しかし、私の中に自分の性質から外へと押す一点があり、動物のレベルから上昇し、クリエーターへと到達、つまり人間のレベルを獲得させるのです。私の中のこの点のみが人間のレベル、クリエーターのレベルに属しています。なぜなら“人”はクリエーターと類似しているからです。

私は完全に物質的世界に属していますが、この一点だけはスピリチュアルに属しています。もしそれが目覚めなかったら人間はただこの世界で生きて、何にもそれ以上のことを疑うことはないでしょう。彼はこの物質的な人生で満足します。しかし、もしこの点が彼のハートのなかで目覚めると、この世界に居心地の悪さを感じ、そこから上昇しようと努力します。彼は二つの力から影響を受けます:1つは物質的世界から外へと彼の背中を押す力。そしてもう1つは、前から、つまり霊的世界からその人を引っ張る力です。

自分自身(人のエゴイズム)を放棄し、自分の性質を越えないなら、クリエーターとの付着には到達できません。私はどちらかの性質と関わりたいのかを決めなければなりません:クリエーターの性質か、それとも創造物のそれか、つまり、授与か受け取りかを選ぶということです。

与えることは私たちの性質とは正反対なため、物質的なものから霊的なものへと移動する方法は1つしかありません:カバリスティック・グループです。グループは計りしれない力をもっています。なぜなら私たちは一緒に努力して、全員が人が生まれてきた目的を成し遂げることを妨げる、利己的な願望を取り消すからです。その目的とはクリエーターに類似することです。クリエーターとは授与の力、愛、そして自己の無化です。このために私は、自らの性質を反転させることを可能にしてくれる“てこ”のような働きをするグループを、外面的な異質の力として必要とするのです。

この力が大きくなって活気づくには、グループは強く団結して、スピリチュアルな目的を果たす願望をもって燃えなければなりません。そうしたら、その中にいる全員がこの力を利用することが可能になり、エゴイスティックな愛の服従の外に出ます。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 5/20/10, Article “The Purpose of the Association –2”

高貴な感覚である恥

私が受けた質問: どうしたら私たちは恥を感じるようになり、エゴを制限できますか?

私の答え: 恥とはとても高貴な感覚で、それは私たちの行路の始めには生じません。この恥はクリエーター、与え主に対するものです。まさに彼が与え主で、私が受け取る側であるためです。

この世界では、恥を感じるのを避けるために、私たちは常に受け取ることを制限します。私たちは受け取ることを正当化せさずにはいられません; 私たちは自己尊厳の感情を”私”とし、それを保持することは命そのものよりも大切なことなのです。実際に、私たちは恥を抑止できるのなら死ぬ覚悟もできています。これが私たちの本性の基礎なのです。人は自らの”私”、自尊心を守るためならば進んで死と向き合います。

恥とは自分の”私”が取り消されたと感じることです。もし私が自分の願望と充足感を失っても、私は断絶したとは感じません。人は死んでも現実から完全に消えたとは感じません。彼は、彼自身のある部分を失ったと感じるだけです。まるで過去の何かを手放すように。

しかしながら、恥の感覚が生じると、自分の霊的な存在を取り消してしまいます。その内面的な感覚は、まるで自分が跡形も無く消えてしまうよな感じなのです。それは生と死を超越しています。それほど計り知れないことなのです。そして、それに耐えることは不可能です。人は自分の”私”を救うために、進んで自殺を図るでしょう。肉体は動物に過ぎず、私たちはそれを失うことを恐れていません。人が自らの生命を賭けるのはよくあることです。

クリエーターは絶え間なく私たちとゲームをして遊びます。一貫して整然と私たちの”私”を侮辱してきて、私たちは自分の主体性を保持する為の策を施すのを余儀なくされます。この人生と死を超越しなければならないという感情は、私が第二の性質を獲得するのを補助してます。私はそれを受け入れる覚悟があります。私は与えなさいと指示されます。私はそうする気です。現在の自分を失う必要があるのなら、私はその用意が出来ています!”私”の一点を保持できさえすれば。

この感覚は是正する光によってのみに与えられます。光は私たちに影響を及ぼし、私たちの最も核にある”Esh Mi Ayin” (無から創られた‐不存在からの存在)と呼ばれる点を目覚めさせます。これは快楽への願望の物質ではなく、もっと計り知れない何かなのです。

それを達成する唯一の道はカバリスティック・グループを通したカバラの勉強です。グループの中で私たちは無限の世界に存在する霊的結束の原型を築こうと努力するのです。この結束の条件を学ぶことにより、私たちはまさしくその状態へと昇進させる光を引き寄せるのです。グループとグループ内での勉強以外、方法はありません。

恥とは辛い感覚ですが、まさにその恥が私たちに救済をもたらしてくれるのです。

From the 2nd part of the Daily Morning Lesson 5/14/10, Preface to the Wisdom of Kabbalah

トーラーを授かるための準備:是正の光

トーラーとは是正の力で、それは私たちを変え、クリエーターと等しくします。私たちがクリエーターと類似することが出来たとき、私たちは“Adam”(アダム)と呼ばれ、各自は“Ben-Adam”(人間)と呼ばれます。アダムとはクリエーターと“類似する”(ヘブライ語 ‐Edame)という意味です。従って、“人間”とは私たちの世界に存在する何十億人の一人のことではなく、クリエーターとの同一化を成し遂げた者のことなのです。

しかしながら自分自身をクリエーターのレベルへと昇進させる、トーラーを実施するには、充分な欲求が必要です。私たちは、俗界的な関心事に飲み込まれています。私たち自身を次の次元へと昇進させるスピリチュアリティへの欲求を、どうしたら重要視できるのでしょうか? これはトーラーを授かる準備の一部です。クリエーターはトーラーを毎日与えていると書かれています。この意味は、それはいつも使える準備が整っていて、私たちの欲求次第であるということです。

従って、まず私は動物の段階から霊的世界という新しい世界へ上昇する欲求を育てなければいけません。しかしながら、もし私にこの欲求がないなら、私は動物のように生き、この手段にも気づかないでしょう。何故なら私はそれに対する必要性を感じないからです―私はこの世界の領域を超えた何かを欲しくも、理解もしたくありません。さもなければ、私はもう既に霊的世界へと前進していることでしょう。現時点では未だに、私は充分な欲求を持ち合わせていないがために、上層次元に入り込む、この方法を利用できないのです。従って私はトーラーを授かるための、自分の準備をしなければならないのです。

もし私が自分の中の「邪悪な性向」を明らかにし、クリエーター(愛と授与の特質および力)に達するために何を是正しなければならないのかを明白にできてのみ、私はこのトーラーという手段を授かる準備ができるのです。トーラーに従事するという意味は、それから是正する光を抽出するという意味です。私はそれを熱望し、それが私を是正することを要求する必要があります。私はまるで、救命の薬を授かるように本を開く必要があります。それが無ければ死んでしまう運命にあるように。このようにトーラーを勉強する人は私たちの世界で多くいるでしょうか?

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 5/17/10, “What is the Preparation for Receiving the Torah?”