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自由:永遠を獲得する

バール・ハスラムの論文「The Freedom(自由)」は以下の言葉で始まります。「石にHarut(彫られている);それをHarut(彫られている)ではなく、Herut(自由)と発音せよ。彼らが死の天使から解放されることを示すために。」この世でスピリチュアルな上層世界をまだ感じることができなく、単に他の動物のように自分の人生の心配しかしないとき、その人には何が必要なのでしょうか? この時の人の主な心配事は生と死です。自由が死の天使からの解放を意味すると記されたことには理由があります。その理由は、カバラの科学が永遠を獲得する方法であり、それは根本的にすべての人にとって重要であるということです。

人類は無意識に自分たちから死の問題を隠します―この問題に解決策はないが、それは私達の全員を無価値な存在にまで縮小します。この世における私達の全行為(文化、教育、仕事)は、死の必然性に目を向けないためになされます。私達はそれを遠くに追い払い、まるでそれが存在しないかのように、それについて考えないようにします。しかしながら、この問いが現れるとき、死を止めることに対してできることがないため、人は完全なる無力感に陥ります。私達はどんな事も対処すること及び達成することが可能です、一つのこと以外―永遠の命。

死の必然性は自分という人間を打ち消します。したがって、人類が無意識に従事する全てのことは、一つの考えから来ています。仮に私達が死ぬことがなかったとしたら、どのぐらい私達が人生に対し違った見解を持つのか、私達は理解していません。私達の存在、現実、そして他者に対する感じ方や態度は、全く違うものになることでしょう。

毎日のカバラレッスン 2010年4月15日 第三部 論説『自由』より)

私を捜すものは、私を捜しだす

受け取った質問: もし私がゾハールのレッスン中、5分間も集中出来なかったらどうすればいいでしょうか?それらの全てを自分の中の何処を探せばいいのかが分かりません。

私の答え: あらゆる手段を使ってゾハ-ルに説明してある全ての特質を自分の中で捜し続けましょう。もし病気の人にこの本文にはどうすれば健康になり、心配事、破産など他の問題らから逃れられるかの情報が記載されてると告げたなら、彼は貪欲に本文を“飲み込もう“とし、語句を全て吸収しようと努力するでしょう。もし彼が脅えていて本文に救済を 捜し求めていたのであれば、彼はもし本が外国語で書いてあってもそれを理解しようと努力するでしょう。

しかし、スピリチュアリティの欠乏は私たちを脅かせません。環境のみがこの願望を私たちの中にもたらしてくれます。

なので、もしあなたが自分の中の何処を探していいのかが分からなくても、とにかく探し続けましょう。想像してください、あなたは新たな、暗い知らない場所に入り込んでいて、何も見えないのです。あなたにはフラッシュライトがあり、毎回何かが聞こえるたびにあなたはフラッシュライトを向け、何かを見つけ出す事を期待しています。

大人として、私たちは知性を満たしながら勉強します。しかし、知覚は知性では発達しません。しかしながら子供の頃、私たちは聞く事と見る事によって発達してきました。見た事、聞いた事を理解せぬままです。これがなぜ私たちが知覚と知性を発達させて来たかの理由です。私たちは物語を聞かされたり、色々な物を見せられてきましたがそれらを理解する事は出来ませんでした。物事の関連の説明されましたが、私たちは把握できませんでした。しかしながら、まさに私たちの理解しようとする努力により、私たちは動物から人間になったのです。

このゆえに現在、私が新たな感覚と心を発達させようと励んでいるとき、私は”それ“が何なのかを理解しないままゾハールを読みます。しかしながら、自分の努力が内在する新しい能力を明らかにし、やがて私は以前自分から隠されていた何かを知覚、理解し始めるのです。

上層世界は私たちの間にあります。私たちはこの世界の人間から、上層世界の“人間“へと発達し続ける事のみが必要です。それを知覚できる様になる為にあらゆる努力をしましょう。そうやって感覚は発達していきます。知覚でき始めるようになった後、思考も働き始めます。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 4/11/10, The Zohar

スピリチュアルな達成の波に乗る

受け取った質問:ゾハールを読んでる最中、次の瞬間に何も思い出せないとしたら、知識は私達に何を与えるのですか?

私の答え:知識は私達に何も与えません。現在私は何かを知っていますが、明日にはそのことを全て忘れます。なぜ忘れるのでしょうか? もし私の願望(KelimKli(器)の複数形)が変化するなら、私の新しい願望の内側で、以前に知っていたことを明日には思い出せないでしょう。なぜなら、私は以前の願望の内側に、その時はもう居ないからです。

私は唯一感覚だけを通じることによって、一つの段階からもう一つの段階へ知識を伝達できるのです。私達の状態には波のようなプロセスが含まれています:知識〜感覚〜知識〜感覚。私がある段階で自分の願望を是正したということにしましょう。私はこの段階での願望是正に従い、現実に対する何らかの感覚と知識を得ます。どの世界のどの段階に自分がいるのかということの実感を得るのです。

そのあとに、新たな願望が現れます。前の段階は消え、私は暗闇に包まれます。私に残るものとは何でしょうか? すべての人は、暗闇の感覚が自分に来る時、そのすぐ後に前の感覚のすべてが消え、もうそれらが扱えなくなることを知っています。しかし、もしあなたがこの新しい段階、この新たな暗闇を扱い始めるなら、あなたの努力が新しい光を呼び寄せ、その光があなたに来てあなたを是正します。その後にあなたは新たな状態に行き、そこでのあなたには、より高度な新しい知識に基づく、以前の知識に対するより深い理解があります。

したがって、あなたはどんなときでも知識を考慮に入れるべきではありません。それはいつもそこにあり、必ず是正された願望に入るのです。最も重要なのは、願望を是正することです。そうすれば、そのなかで明かされる必要のあるどんなものも、明かされるでしょう。しかし、このことについて心配することは、意味をなしません。

これが、なぜ正しく勉強する人が、何も覚えないでレッスンを後にするのかということの理由です。彼らは一般的な印象を持って教室から出て行きます。この印象は、彼らの理解の中ではなく、感覚の中に記録されるのです。それは感覚の記憶に残るのであり、知性に於ける記憶ではありません。

私は思考力を見下しているのではありません。実のところ、私は知識と真剣な研究に惹かれます。しかし、人が“心の中の点”を通じて勉強するとき、彼の感覚が十分に発達するまでは、彼が勉強している内容を理解することも覚えることもありません。感覚が十分に発達した後に、彼は自分の感覚で理解しはじめるのです。そのあとに、彼は“彼が感じていること”を理解するのです。

結局は、何年もかけて勉強してきたことは消え、“勉強結果”が見えないということになります。その結果とは、あなたの知識の中で示されるべきではなく、是正の光(Ohr Makif・包む光)があなたの特質を是正することに於いて示されるべきなのです。あなたの特質の中という意味です。

これは、4年間から6年間かけて何らかの分野のエキスパートになり、そのあとにもう二三年間かけて博士論文を書くといった大学の勉強とは、とても異なることです。カバラを10年間学んだ人の明確な知識とは何処にあるのでしょうか? 彼は何を得たのでしょうか? 彼にはそれについて見せれるものが何もないようにみえます。その理由は、彼が啓示を達成するまで、新しい特質の中に毎日新しく生まれ変わるからです。

彼が啓示を達成するとき、すぐにそれは彼の段階に記録されます。そうすれば、彼が上昇状態のとき、彼は題材に於ける精通と知識を本当に有します。しかし下降状態のときには、彼は闇に包まれ、彼の経験だけが彼を持ちこたえさせます。(バール・ハスラムの論文”What Is Support in the Torah, in the Work“を参照してください。)

人は、私達が最後の是正(Final Correction)に到達するまでは、状態が大きく変化し、是正のレベル又は高さだけを考慮に入れるべきであるということを理解しなくてはなりません。知識はいつまでも人の段階に応じてその人に伴っています。

子供達はスピリチュアルな意味を自然に認知する

受け取った質問:トーラーに書かれている語句と物語を子供たちに説明する事は可能でしょうか?

私の答え:子供たちは、これに対し、大人たちよりも準備が整っています。彼らは知覚と知覚機能を発達させています。彼らが他の語句から成る言語を認知するのに、問題はありません。なぜなら、彼らはその語句を初めて耳にするからです。

あなたは子供にグラスを見せて「これはグラス」と言うことができます。あなたは、また、「グラス」とは人に於ける何らかの感覚(知覚)であると説明する事ができます。子供はこれらの概念を認知します。なぜなら、彼はこの世にある定義をまだ有していないからです。それか、あなたは、グラスとは私達が満たすガラスから成る器であり、それが彼または彼女が満たしたいと思っている人間の内面的な器であると言うこともできます。子供はこれを自然に認知し、彼がそれで困惑されることはありません。

この理由は、子供たちの認知(知覚)が大人たちのように二つに分かれてはいないからです。子供達は、私達が現在スピリチュアルワールドで発達することになっているのと同じように、この世で発達するのです。これは同じ道であり、同じ道筋です。

追放と救いの本当の意味を発見せよ

エジプトへの追放(エジプト捕囚、the Egyptian exile)とは何でしょうか? それは自分自身に対する愛が現れることです。したがって、エジプトからの脱出とは、初めて自分の隣人を愛することができるときなのです。

私が他者に対する愛を獲得したいと本当に切望すれば、私はエジプトの外に出て来れます。バール・ハスラムが『イェフダのため』という彼の論文のなかで書いたように、来るべき救いの本質は、人が依然として追放状態にいる間に、はっきりしなくてはなりません。あなたは自分が望んでいるものを理解しなくてはならないのです。あなたは何を追放状態と見なすのですか? あなたは何から追放されたのですか?

もし追放の意味が自分が自己愛の奴隷になることで、救いとは他者に対する愛の力——統一体の中でクリエーターを明かすために、一体化してアダムが破壊される前の一つの魂の状態になる能力——を獲得した時であるということが分かるのなら、あなたは本当に追放を感じ、救いの準備ができています。そして、そのあとに救いはあなたに訪れるのです!

もしあなたが自分の願望を準備したなら、改善する光があなたに訪れ、あなたをエゴイズムの外へと導きます。すべては自分の中の利己的な心配の外にある自由へと脱出したいというあなたの願望によります。これが追放の目的であり、これが何故私達がまだ救いの準備ができていないのかということの理由です——なぜなら、それはこの為だけに存在しているからです。スピリチュアリティーとは授与(与えること)です。もし私達がそれを望むのであれば、それは私達が自由になる準備ができていることを意味します。

現在私達は、私達自身の追放状態を長引かせています。なぜなら、私達はそれを異郷生活そして奴隷の境遇とは思わないからです。私達はその中に居ながらして、気持ちよいのです。私達は単に金、権力、そして他の充足源を、もっと欲しがっているだけなのです。私達は独りにさせてもらいたく、隣人に対する愛のことについて聞かされたくはありません。私達はこの愛を欲しくないのです!

地獄とは、授与する能力がないことです。天国と地獄とは、それらに対する人々の通常的な概念とはだいぶ異なります。人々はどちらも欲しくありません。そして、そのどちらも自分達の内面で感じません。これは人が邪悪でも高潔でもないことを意味します——その人は追放状態にいない単なる動物(獣類)です。

邪悪な人は自分がエゴイストであることを知っており、高潔——授与していること——になりたいと思います。したがって彼は自分の是正されてない状態のことを「地獄」と呼びます。高潔な人とは、授与と愛の特質を獲得した人であり、自分が天国にいると感じるのです。

困惑を恐れるな

受け取った質問: あなたがスピリチュアル世界の仕組みを説明すればするほど私は混乱してしまいます。 なぜこのような事が起こるのでしょうか?
 
私の答え: 例えば、私が医師に行き、彼に自分の外面的な症状を告げている所を想像して下さい。 医師は私に医療検査を受ける事を求め、その結果を調べ、他の医師と論議します。 私は、彼らが私自身の事、自分の感覚、健康の事を話し合っているのでありながら、何も理解することが出来ません。 この理由は、彼らは私の内面的、複合的なレベルで、実際に私の中で起こっている事を論議しているからです。
 
その後、彼らは私にピルを与えてくれます;その中身も私には不明です。 私は単純に、彼らとその処方されたピルが自分を救うと信用して飲みます。 もちろん、彼らは専門的な医療的論議で私を困惑させ、私はそれらを決して聞くべきではなかった。 それにもかかわらず、私たちの世の中では、医師の言う事に対する自身の理解にかまわずピルは作用します。
 
ここ、勉強の間では私はカバリスティックな医師たちが自分の事について書いた事を読みます:一人のカバリストは同士に魂らが改善しなければいけないシステムの中で、内面的に何が起こっているかを説明しています。 もちろん私には一切理解できません! けれども私はこの物語とそれら自体に夢中になり、理解したい、感じたいと望む為、私はそれらと接続し、それに似通っていくのです。
 
もし私が彼らのような医師になりたいのであれば、私は私と彼らとのコネクションを利用して学びます。 もし私が混乱を感じながらもその本質を把握したいと望み、もし私がこの本が自分の魂の是正の事を説明していると感じるのであれば、私に選択の余地はありません。 私は彼らの言語(医療分野でラテン語が使われている様に)を学ばなければならず、その後に私は彼らの話している事を理解出来るようになるのです。
 
カバリストはこれらの本を他の同カバリストたちの為に書きました。 彼らは彼らの間で理解できる言語で話し合います。 なぜならこの言語は色々な世界の事や霊的概念を説明するからです。 現時点では、私は彼らが意味する事を全く理解できません。
 
しかし、もし私が彼らが教える事を理解したいと熱望し、その中に存在したい、感じたいと励むのなら、私はこれらの本を開き、入り込もうと試みるのです。 理解度のレベルは重要ではありません。 重要な事は、外面的な知性で理解しようとする試みではなく、むしろ感情と一緒に入り込みたいという私の望みです。 私は啓示を求めなければいけません。
 
私は彼らが書いている事を確かめなければいけません。 彼らは自らが見て感じた事を説明しているので、私はそれを感じる事を望まなければならないのです。 これが、なぜ自分の理解力、洞察力、感情らの不足が自分を前へと押し進めるだけか、の理由です。

ラムバム、偶像崇拝の法則を語る

ラムバム(1135年~1202年)Mishneh Torah『偶像崇拝の法則』第一章(要約記事):

1 エノクの時代の賢者らとエノク彼自身は、神(God)が世界を支配する為に星々と天球を創造したことから、それらが彼の忠実なしもべであると判断した。したがって星々は賞賛に値し、それは神の意思に一致する。

2 この概念を念頭にいれ、彼らは星々の為の寺院を建て、それらにいけにえを差し出し、それらを賛美しはじめた。その全てはクリエーターの意志を満たすためという目的で行われた。これは偶像崇拝の始まりを印した。

3 したがって偶像崇拝者は具象的な星が神(a god)であるとは主張しない。すべての者たちは唯一あなただけが神であることを知っている。それにもかかわらず、人々は正当でない行為があなたの意志を満たす事であると見なし思い誤る。

4 多くの年月が過ぎ、偽の預言者らが姿を現した。彼らは神が彼らに「星に仕えよ、それにいけにえを差し出し、それに寺院を建て、人々がそれを崇拝できるようその像を造れ」と人々に伝達するように命じたと伝えはじめた。彼らは彼らが発明したある決まった形を人々に見せ「預言のなかで私に告げられた像がこれである」と言った。

5 この様に彼らは寺院なかで像を造り、崇拝する為にそこに集まりはじめた。彼らはその像が悪又は善をもたらし、人はそれを畏れるべき、または、それに仕えるべきであると人々にほのめかした。カルトに仕える者たちは彼らを説得させた:「礼拝儀式を広めよ。そしてそれはあなたに幸運をもたらすだろう;これやあれをせよ。又は、これやあれをするな。」


全てのものは相対的である、追放と救いでさえも

追放と救いは相対的なものであり、それはその人が何処から落ちたのか、そして何処へ落ちたのかによります。私がスピリチュアリティーから追放されているということを感じることができるのは、私がスピリチュアルワールドを感じ、自分がそれから分断されていることを感じる時に限ってのことです。しかし、もし自分が何から分断されているのかについて感じないのであれば、これを追放と呼ぶ事はできません。なぜなら、何から自分は追放されたのでしょうか?

スピリチュアリティーに関して、バビロンの追放はエジプトからの脱出よりもさらに高い状態でした。しかしそれは追放と呼ばれています。それが多大なる苦しみを生じさせたためです。

私がスピリチュアルな階級から堕ちたことについて、いつ後悔するのでしょうか? それはまさに私がスピリチュアリティーのなかに存在するときです。なぜなら、それ以外に自分はそれを評価することができるのでしょうか? 私はいつになったら、愛、授与、正しい繋がり、そして他者に対する自分の愛におけるクリエーターとの類似性がある状態から、自分が堕落したことを後悔するのでしょうか? いつ私は自分が追放状態まで堕落したと言える事ができるのでしょうか? それは私が既にそれらすべての特質を会得しながらも、それらが十分ではなく、納得ゆかないものとして見るときです。

追放の感覚はとても高尚な状態です。なぜなら、それは私が他者に対する授与と愛の特質を欠いているということから苦しむ時であるからです。


勉強は難しければ難しいほどよい

私達の考えと願望はお互いに繋がっています。したがって、たった今、私達がゾハールの書を勉強している間に、もし誰かが怠惰になっているのなら、これが残りのすべての人を衰弱させます。この人はこの行為に対する罰を受け、勉強を続けることが彼にとってもっと難しくなります。

私達は皆1つの共通の船に乗っています。私は、それに穴を開けているのか、それとも、自分の能力の限りをつくして私達の共有している船を自分の意図で進ませているのかのどちらかです。

私にエネルギーがなければないほど、私にとってそれはますます難しいものになります。それでも、もし私がこれらすべての障害を乗り越えるのなら、私は光を呼び起こすという共同の努力に、自分の大きな努力を提供することになります。それによって私は自分以外のすべての人に影響を及ぼし、この影響が彼らを通じて自分に戻ってきます。その結果、私は最後に勝利者になります。

したがって、それが勉強中に難しければ難しいほど、それはますます良くなるのです。私は自分の責任を感じなくてはなりません。なぜなら、私達の全員が「相互保証」と呼ばれるグループ契約にサインをしたからです。そして、この事実は私に行動する義務を負わせなくてはなりません。

自分独りでゾハールの書を読むことはできません—自分には環境が必要です。この環境とは、世界中で勉強しながら、この勉強結果を期待している人々のことです。クリエーターは世界の様々な場所にいる数百万の人々を目覚めさせました。今、その人々は私達と一緒にゾハールの書を読んでいます。

テレビまたはパソコンのモニターの前に座っているすべての人は、もし彼がこの瞬間に怠惰になっているのなら、彼が他の全ての他者に影響を及ぼすことを理解しなくてはなりません! この違反は彼に戻ってきて彼が私達全員に及ぼした害と同じ程度に彼を目的の達成から遠ざけます。

したがって、その勉強は自分の個人作業ではないのです。今、私達の全員が、私達の船を目的地に近づけさせる「包む光」(the Surrounding Light)を引き寄せようと努力しています。友が欲しがるのなら最後の枕をも与えるという友愛の度合いを人は獲得しなければならないと記されています。

今考えてください:あなたの友達がスピリチュアルな目的地に向かって前進したいと思っています。そして彼とあなたの二人が同じ方向に一緒に進んでいます。しかし、突然あなたは彼を置き去りにします! これほどの裏切者はどんな罰を受けるに値しますか?

スピリチュアリティーの中では全てが反対である

バール・ハスラム著 『Beit Shaar HaKavanot(意図の門楼)』:最初にはZair AnpinNukvahが二つの大きな光として、背中合わせで同じ段階に立ち、Nukvahには裏側の十個のSefirotのスピリチュアルなPartzufがあったことから、創造の四日目に月が欠けた。[これはNukvahがスピリチュアルな器を含んでいたことを意味します。では何故彼女には光が欠けていたのでしょうか?] 月は、二人の王は同じ王冠(Keter)を使うことができないと不平を言った。彼女は「行け、そして自分自身を小さくしろ!」と告げられた。こうして、彼女は以前住んでいたZair AnpinYesodの下の箇所に戻った。

Malchut(創造物)は彼女がZair Anpinのようになれると思いました。しかし、彼女は彼のようには輝くことはできませんでした。彼女は光をZair Anpinのように受け取るためにBinaへ上昇しましたが、そうすることができませんでした。これはZair Anpinには授与の特質があるという理由からでした。彼の性質はHassadimの光であり、彼はHochmaの光が無くても完璧さを感じるのです。彼はいつでも好きな時にHochmaの光で輝きます。なぜなら彼には常にHassadimの光があるからです。

しかしながら、MalchutにはHassadimの光がなく、彼女はHochmaの光のなかで彼女の存在を暗闇として感じます。これが創造物の不平を成すものです(Kitrug Yareach―月の不平):「私はまさに無限世界の高さへ上昇できる。しかし私にはHassadimの光―授与の光―がない。ゆえに私のためにHochmaの光は輝くことはなく、私はより大きな暗闇を感じるだけだろう。」

私達はいつ私達が暗闇にいることを明らかにするのでしょうか? それはまさに私達が上に持ち上げられているときです。私達がわずかに上の方へ持ち上げられるとき、そのことが私達に正された願望―Hassadimの光―が欠けていることを感じさせます。私達はこれを暗闇として知覚するのです。

私達が暗闇を感じるのは、私達が落ちるからではなく、上昇するからです。しかし、それは私達がHassadimの光—愛と授与の光—の衣をまとわずに上昇するという理由からです。私達の考える下降(下落・堕落・落ち込み)とは実際には上昇(向上・進歩・高揚)です。しかし、それは是正されていないものです。同様に、私達にとって上昇に思えるものとは実際には下降です。なぜなら私達が受け取りの願望の中に与えられている物を受け取るからです。したがって、スピリチュアルワールドのなかでは全てが逆なのです。