光の“息”を感じる

私達に必要な是正、そして充足のすべては光から要求することができます。私達の想像できること全ては、既に光の中に存在しています。なぜなら、それが私達を創造した根源であるからです。

私達が私達の活動(勉強、グループ作業、カバラの普及)によって光を引き寄せる時、光は私達に作用し始め、それからしばらくすると、私達はまるで何か未知なものに遭遇しているかのように感じ始めます。これは光が私達に近づいていることを意味します。たとえ私達にそれがまだ見えないとは言え、私達には“息”(Ruach)がかけられ、それを感じます。そうすると、私達はこの光の感覚を失いたくないと憂慮し、ある一定の行動をしはじめます。

光が消え去ることを恐れ、私達はそれとの関係を築き始めます。私達がそれを失いたくないのなら授与しなくてならないことを光が知らせるので、それは授与の関係であるといえます。私達はエゴの外に出ることを可能にする特質と意図を持とうと努力し、常に自分たちをチェックし始めます。そして、そのあとに私達は光が私達の回り又は内側にあることを感じるのです。

このようにして人は、喜びを受け取りたいという先天的な願望の上に“影”を築きはじめるのです。光は「私を感じたい? そしたらこれをしなさい。さもなくば、私はあなたから消え去るでしょう・・・」と伝えるかのように、私達の訓練の指揮をとります。”影の中”に留まることがその人の“癖”(第二の天性)になるまで、徐々にこの“ゲーム”が私達を指導してくれます。

その第二の天性を獲得したなら、既にその人は“影の中”に留まることを望んでいます。彼はこれが特別な状態、彼の個人的な計算を超越する“上昇”であると感じます。したがって、“Lo Lishma”から“Lishma”に来るのです。彼はこの状態が永遠性と完璧さをにじみ出させる(それが彼にとって良いという意味)と気がつきます。彼はその状態そのもの——まさに他者に対する授与と愛の特質——に価値を置きはじめるのです。

光が近づいては離れるというこのゲームを通し、この全ては光によってなされています。そして、それは最初光の方の側から影を投げさせ、その後に人の方の側から影を投げます。最初その人は自分の利己的な願望を隠し、そのあとに、光が隠れるというように代わりばんこで行われるのです。このようにして人は段々と自分エゴに対抗するスクリーン(Masach)を構築するのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 4/16/10, Shamati #39

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