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追放と救いの本当の意味を発見せよ

エジプトへの追放(エジプト捕囚、the Egyptian exile)とは何でしょうか? それは自分自身に対する愛が現れることです。したがって、エジプトからの脱出とは、初めて自分の隣人を愛することができるときなのです。

私が他者に対する愛を獲得したいと本当に切望すれば、私はエジプトの外に出て来れます。バール・ハスラムが『イェフダのため』という彼の論文のなかで書いたように、来るべき救いの本質は、人が依然として追放状態にいる間に、はっきりしなくてはなりません。あなたは自分が望んでいるものを理解しなくてはならないのです。あなたは何を追放状態と見なすのですか? あなたは何から追放されたのですか?

もし追放の意味が自分が自己愛の奴隷になることで、救いとは他者に対する愛の力——統一体の中でクリエーターを明かすために、一体化してアダムが破壊される前の一つの魂の状態になる能力——を獲得した時であるということが分かるのなら、あなたは本当に追放を感じ、救いの準備ができています。そして、そのあとに救いはあなたに訪れるのです!

もしあなたが自分の願望を準備したなら、改善する光があなたに訪れ、あなたをエゴイズムの外へと導きます。すべては自分の中の利己的な心配の外にある自由へと脱出したいというあなたの願望によります。これが追放の目的であり、これが何故私達がまだ救いの準備ができていないのかということの理由です——なぜなら、それはこの為だけに存在しているからです。スピリチュアリティーとは授与(与えること)です。もし私達がそれを望むのであれば、それは私達が自由になる準備ができていることを意味します。

現在私達は、私達自身の追放状態を長引かせています。なぜなら、私達はそれを異郷生活そして奴隷の境遇とは思わないからです。私達はその中に居ながらして、気持ちよいのです。私達は単に金、権力、そして他の充足源を、もっと欲しがっているだけなのです。私達は独りにさせてもらいたく、隣人に対する愛のことについて聞かされたくはありません。私達はこの愛を欲しくないのです!

地獄とは、授与する能力がないことです。天国と地獄とは、それらに対する人々の通常的な概念とはだいぶ異なります。人々はどちらも欲しくありません。そして、そのどちらも自分達の内面で感じません。これは人が邪悪でも高潔でもないことを意味します——その人は追放状態にいない単なる動物(獣類)です。

邪悪な人は自分がエゴイストであることを知っており、高潔——授与していること——になりたいと思います。したがって彼は自分の是正されてない状態のことを「地獄」と呼びます。高潔な人とは、授与と愛の特質を獲得した人であり、自分が天国にいると感じるのです。

困惑を恐れるな

受け取った質問: あなたがスピリチュアル世界の仕組みを説明すればするほど私は混乱してしまいます。 なぜこのような事が起こるのでしょうか?
 
私の答え: 例えば、私が医師に行き、彼に自分の外面的な症状を告げている所を想像して下さい。 医師は私に医療検査を受ける事を求め、その結果を調べ、他の医師と論議します。 私は、彼らが私自身の事、自分の感覚、健康の事を話し合っているのでありながら、何も理解することが出来ません。 この理由は、彼らは私の内面的、複合的なレベルで、実際に私の中で起こっている事を論議しているからです。
 
その後、彼らは私にピルを与えてくれます;その中身も私には不明です。 私は単純に、彼らとその処方されたピルが自分を救うと信用して飲みます。 もちろん、彼らは専門的な医療的論議で私を困惑させ、私はそれらを決して聞くべきではなかった。 それにもかかわらず、私たちの世の中では、医師の言う事に対する自身の理解にかまわずピルは作用します。
 
ここ、勉強の間では私はカバリスティックな医師たちが自分の事について書いた事を読みます:一人のカバリストは同士に魂らが改善しなければいけないシステムの中で、内面的に何が起こっているかを説明しています。 もちろん私には一切理解できません! けれども私はこの物語とそれら自体に夢中になり、理解したい、感じたいと望む為、私はそれらと接続し、それに似通っていくのです。
 
もし私が彼らのような医師になりたいのであれば、私は私と彼らとのコネクションを利用して学びます。 もし私が混乱を感じながらもその本質を把握したいと望み、もし私がこの本が自分の魂の是正の事を説明していると感じるのであれば、私に選択の余地はありません。 私は彼らの言語(医療分野でラテン語が使われている様に)を学ばなければならず、その後に私は彼らの話している事を理解出来るようになるのです。
 
カバリストはこれらの本を他の同カバリストたちの為に書きました。 彼らは彼らの間で理解できる言語で話し合います。 なぜならこの言語は色々な世界の事や霊的概念を説明するからです。 現時点では、私は彼らが意味する事を全く理解できません。
 
しかし、もし私が彼らが教える事を理解したいと熱望し、その中に存在したい、感じたいと励むのなら、私はこれらの本を開き、入り込もうと試みるのです。 理解度のレベルは重要ではありません。 重要な事は、外面的な知性で理解しようとする試みではなく、むしろ感情と一緒に入り込みたいという私の望みです。 私は啓示を求めなければいけません。
 
私は彼らが書いている事を確かめなければいけません。 彼らは自らが見て感じた事を説明しているので、私はそれを感じる事を望まなければならないのです。 これが、なぜ自分の理解力、洞察力、感情らの不足が自分を前へと押し進めるだけか、の理由です。