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5 Minutes Of Light From The Daily Kabbalah Lesson: スピリチュアリティーとは?

自分自身から脱出し他者の中へ

自分自身、自分のエジプトから脱出することとは、何を意味しているのでしょう?

私は自分で運べる物の全てを持ち、隠れるためだけに逃げます。しかし、私が完全なるエジプトの闇に包まれているとき、何処に逃げる場所があるのでしょう? 私は自分の願望の中に閉じこめられています。それゆえ、私はどこへ逃げることができるのでしょう? 結局のところ、私には他に何もないのです。

私は自分の力だけでこれを遂行することはできないかもしれませんが、それを切望しなくてはなりません。さもなければ、生き残るチャンスはありません。人はエジプトの器のすべてを持ち、夜の暗闇の中、エジプトから逃亡します。暗闇が彼を取り巻いている状態で、彼はどこに逃げることができるのでしょうか? その次の状態も暗いのです。しかし彼はそれがより自由に近いと感じます。

たとえ私が今、他人を憎んでいて、他人とのつながりがないとしても、それでも私は次の状態がより進歩したものであることを知っています。言い換えると、私はできる限り自分の願望から出てきて、隣人の願望の中へ入るのです。私は単純に逃げます。しかしながら、私は今のところそれらの中に光を見ません。私は暗闇をよそに、それらの外に出る覚悟を示す必要があるのです。

私は自分の背後に自分に向かって輝いているものがなく、もうこれ以上自分のエゴのなかに留まることができないことを見るゆえに、最後の海(紅海)を達成し、その中に飛び込む覚悟があります。私は共通の願望、私の隣人の願望の中に入るためだけに、それを殺す覚悟ができています。

私がそこで自分のために何も受け取ることがないという事実にもかかわらず、私は次の段階、スピリチュアルな段階がそこに置かれているのを見ます。人は自分自身の内部の願望に関して、他の人々の外部の願望の方がより高い段階であることを理解します。


エジプト脱出の奇跡

『ゾハール』Bo(ファラオの所へ来る)章 ・・・そしてあなたの神である主はあなたをそこの外へ連れてきた・・あなたがエジプトから脱出したこの日を覚えておくのだ・・・そして、彼の偉大な力で、彼の存在と共になんじをエジプトの外へ連れてきた・・・主はあなたをこれの外に連れてきた・・・エジプトからの脱出は50回トーラーのなかで言及されている・・・

50とはMalchutの10個のSefirotBinaの40個のSefirotを一緒にした最高段階です。Malchutの全体はそれ自身の上、その最高段階にまで昇る必要があります。これらの2つの力は人間の中で感じられないといけません。1つがもう1つと対立するように。

したがって、自分らのエゴイズムから脱出する力が私達には備わっていないということに於けるひどく不快な気持ちに至り、同時にこの遂行が絶対に必要であることを感じるようになり、そのあとに私達が「エグザイル」(異郷生活・国外追放)を終えるまで、救済はやってきません! 私達がこの対立を最大限に感じるようになるとき、紅海(ヘブライ語では最後の海と呼ばれる)の海が開き、それを渡るのです。

人は、それがどう啓示されるのかについて知りません。これは奇跡と呼ばれています。しかし、この奇跡は人が行き詰まった状態になるときに、その人自身によってもたらされるのです。一方、その人は、どのように脱出することが可能なのか理解しません—その人にはこのための力または能力がありません。さらには、その人の性質を変化させる何らかの力が上層に存在しうることも理解しません。そして他方、自然を超えた所に存在しているこの力が啓示されるのです。

これは奇跡のようにしか起こりません。それは「エジプト」と呼ばれるその状態、その性質の上で生じ、人間の内面感覚の全体を構成します。

あなたは救いを待っているのか?

『ゾハール』Shemot(出エジプト記)章 247節:Malchutである、イスラエルの聖なるHayaの外面という意味の、彫り物にしがみつくGevuraの側面から来た、上にいる強力な者たちである、Malchutは60人だ。これは何故彼らが彼女、60人の王妃[Malchuts]の名を取って名づけられているのかということの理由だ。それらは国々(the nations)の上に任命された天使たちだ。80人の女中は、60人の王妃の下で、Malchutの彫り物に任命された天使たちだ。これは何故それらが王妃ではなく女中と呼ばれているのかということの理由だ。そして少女たちには数はない・・・

私達が『ゾハール』のなかで読む全てのことは、願望の内側で生じることです。願望以外には何も存在しません。私達はその内面的な現象、変化、そしてその各部分の様々な関係性について読んでいるのです。

それは集合的にMalchutと呼ばれる巨大な装置であり、常に光との同等性を高めながら変化する必要性があるのです。したがって、『ゾハール』に記述されている全ての名前や語句は、それらの様々な相互関係において、Malchutの内部、私達の願望の内部に存在しています。

これゆえに、私達に必要なことは、単に『ゾハール』に記述されている光の願望への引き寄せ方だけについて考えることなのです。私達は明確にどの特質や変化が描写されているのか、また、そこで生じていることについて理解していませんが、それでも救いを待ちます。救いとは、光がこの願望に影響を及ぼすこと、私達が願望とそれを満たす光を感知して理解すること、そしてそれらを一緒に感じることです。確かに他方を感じることなく一方を感じることは不可能ですが、もしそれらの間に接触がまさに最少量の最初だけでもあればよいのです。

これを私達は待っているのです。そして、私達が『ゾハールの書』で読む全ての語句と文字はこの願望—私達の魂—の中だけに存在しているのです。

瞬間を永遠に持続させる

クリエーターの目的とは、人間を彼のレベルにまで引き上げることです。これは何を意味しているのでしょうか? 私達はクリエーターが創造した楽しむ意志の内側で人生を知覚します。この特質はクリエーターの外側で存在する唯一のものであり、これは私達が常に充足における欠乏を感じる理由です。私達には常に何かが欠如しており、いつも喜びを切望しています。しかし、楽しむ意志に舞い降りる光は、すぐに消えて無くなってしまいます。光は願望を“無効”にし、願望は充足を感じないのです。

したがって、私達が喜びに対する願望の中で人生を知覚するという理由から、人生は全てが消えてしまう一時的ではかないものとして知覚されます。すべての瞬間は留まることも次の瞬間によって補充されることもなく、過ぎ去って消えてしまいます。一方には願望があり、他方には喜びがあります。そして、その二つが出会うとき、たとえ喜びが最少量であったとしても、それらは中和してしまうのです。

この理由から、私達の全人生は、願望(Kli)と光の間で起こる、すぐに消えてしまう、これら小さな点の出会いから造られているのです。そしてこれは私達の人生が終わるまで続きます。例えば、願望の割当て量があると仮定してみてください。楽しむ意志における数百万の小さな割当ては、一つずつ明かされていきます。これらの各割当ての反対側には、その割当てに充足をもたらす光があります。そして、それらは出会い、消えてしまいます。あなたの割当て量を使い果たしてしまえば、あなたの人生は終わりを迎えます。あなたの全存在もそれと一緒に消えてしまうのです。

しかし、もし願望と光の間で起こるこれらの出会いの行程の間に、光と願望がお互いを“捕まえ”、一緒に存続する状態を達成したとすれば、あなたは願望の中で光を永遠で終わりのない生命として知覚しはじめます。その理由は、前の瞬間もあなたと一緒に留まるからです。その時あなたは時間の感覚を超越します。あなたは瞬間を停止させて永遠の存在を獲得するのです! これは永遠で完璧であるスピリチュアルライフの特許の全部です。これはカバラの知恵を応用することで達成できるものなのです。

スピリチュアル的誕生の方法

どうすれば永遠性と完璧さを達成することができるのでしょうか? それは唯一、形態(形状)の同等性(等価)の法則に従うことで実現できます。もし光と願望が互いに反対であるのなら、光は願望を相殺します。しかしもしそれらが同等であるのなら、それらはお互いをサポートし合います。その場合、私達はそれらの存在を感じ取ります。この感覚が永遠の命と呼ばれるものです。カバラはまさにこの目的のために使われるよう意図されたものです。

この状態—クリエーターのように、永遠に生き、真の現実を知覚する能力—に到達するために、私達は是正のプロセスを全部済ませなくてはなりません。全ての是正は、楽しむ意志を光の特質に類似させるために上層から下降してきます。それにより私達は形態の同等性の法則に従うのです。

これは是正のすべてを成しています。私達は、クリエーターとの反対状態—私達が最初に創造された状態—でいるのか、それとも彼との同等性を徐々に獲得しているかのどちらかです。私達は光と願望の一体化がなされてない間に、自分たちの是正をします。そしてそれらが一体化した瞬間に、私達はスピリチュアリティーのなかに誕生します。

この是正方法をカバラの科学と呼びます(ヘブライ語でカバラとは“受け取り・受け入れ”-receptionを意味します)。それは光が消滅しないよう如何に光を願望のなかに受け入れるのかということを題材にする科学です。そうすれが私達は真で永遠(無限)の現実を感じ取ることができます。これは実際にはとても崇高な叡智であり、簡単ではありません。

私達はこれを起こす方法を本当には理解していません。しかし、それを起こさせることは、まさに私達の最も内面的な願望であり、私達はそのことにさえ気づいていません。これは私達の生きている理由であり、私達が常に無意識に探しているものです。

私達が最初に光との接触を達成し、それゆえ光が私達の中に留まり、私達の願望の中で光を知覚するときの段階—つまり光が私達の内側にあり、それと離れることがないという理由から、永遠の命を知覚するときの段階—がスピリチュアル的誕生(霊的誕生)です。それはエジプトからの脱出とも呼ばれています。

それより前に私達は、エジプトでの異郷生活(Egyptian exile )、スピリチュアル的誕生のための準備と償いの状態に留まらなくてはなりません。これは、なぜ私達が、全世代のカバリストが私達のために用意した様々な手段の助けを借りて、可能な限り早くエジプトからの脱出をするために、エジプト捕囚で経験しなくてはならない様々な段階に多大な注意を払うのかということの理由です。


心地よい近道を選択する

今日、過度に膨張した人類のエゴイズムは、私達に思いやりのある愛他的な人の夢を見ることさえも許さないまでになりました。以前には、そのような思いやりのある人々を教育して育成できるという希望はまだありましたが、20世紀はこれらの夢に終止符を打ちました。現在私達は、愛他的に行動する能力が単純に人間には備わっていないことを理解しています。これは大いなる気づきです。なぜなら、それは既に私達が自分たちの邪悪さを認めていることを意味しているからです。

しかし、今や私達は問題に直面しています:もし私達がより愛他的(利他的)にならないとしたら、この世で人間が生存し続けることは可能なのか? 現在私達は自分たちが共通の世界システム—すべての人がお互いに関係し合っている“世界村”—の中にいることを実感しつつあります。そのような相互的なつながりのなかで、愛他的にならなくても、私達は生き延びられるのでしょうか?

現在の様な生き方がもうすぐできなくなることは明白です。私達の仲は引き裂かれています。人類が生き延びるには、私達はお互いに与え合って“一心一体”のようにならなくてはいけません。しかし歴史を見てきても分かるように、私達の力だけでこれを達成することはできません—それは単純に不可能なのです!

しかし、私達は第三の力—これを達成させるクリエーター—が存在することを明らかにすることができます。私達はひどい苦難—“人々の間に和平を確立する”クリエーターの必要性を余儀なくさせる戦争や世界的流行病—を通じて、この啓示と解明に至ることができます。しかし、この自然的進化の道はとても長く、困難なものです。

それに代わる道はあります。もし私達がカバラの科学を学ぶなら、もし私達が経験する必要のある状態と、示す必要のある決心を理解するなら、そしてもし私達がこの知識を世界中に広めて上層の光を引き寄せるなら、光は私達を是正するでしょう。それは私達に、人間性を通じ自分たちの力だけで達成することのできない、授与(与えること)の特質を与えます。この代替手段は、心地よい近道を通り、“時間を早めること”で私達を是正に至らせるのです。

私の内面にあるスピリチュアルな特性:「アブラハム」と「イサク」

「アブラハム」とは、私達が内面で明らかにする最初のスピリチュアルな特性です。それは授与(与えること)の主要的な特質、Hafetz Hesed(慈悲を欲する者)です。アブラハムが「老齢期」に達するとき、つまり、ある決まった段階が彼に完全に明かされる時、前の段階と根本的に正反対の新しい段階が現れます。

このプロセスは、次の段階を達成する前に、アブラハムが絶え間なく自分自身を以前のバビロンと結びついている願望の上に引き上げることです。まず彼は、他の神々を崇拝するバビロンの住民の全ての願望と力から、遠ざかります。彼が自分自身をそれから切り離すとき、彼はその場所又は段階を去ります。そして、新たな段階が現れます。この新たな段階で、そのサイクルは繰り返されます。彼はまたしても、内面の願望を明らかにし、それは彼を去ったばかりの前の段階に引き戻します。

彼が絶え間なく質的に願望を超えて成長している理由から、新たな段階が現れるように見えるのです。願望はアブラハムとは正反対の「左側」でその正体を現します。しかし同時に、それは彼の「息子」です。その意味は、それがアブラハムに源を発している結果であるということです。このようにして左の線、BinaGevura(支配的なこと、圧倒的なこと、峻厳)を示している「イサク」が、左側(Klipot)と結びついている全ての不純な力の源として現れるのです。


知覚範囲を広げる―正反対なもの両方が真実になることがある

イサクはアブラハムと正反対に成長する力であり、彼に反する助けとしてアブラハムに仕えます。私達は、スピリチュアリティが、以前に私達が考えていた1つだけの力ではないことを発見しはじめます。2つの正反対の意見が共存し、その両方が真実になることがあるということを理解する能力は、私達にはありません。それはまだ理解されていませんが、まさにこの衝突と争いの中で、真実が明きらかになるのです。私達は全てのものが分かり易く明確に定義されるべきだと考えます。

しかし、私達は物事において最初に知覚したときのような明快さがなくなることを実感しはじめます。私達が「イサク」の特質を扱いはじめ、それを是正しはじめるとき、物事において以前私達がエゴイズムだけを使って知覚していたときのような分かり易さがなくなることに気がつきはじめるのです。言い換えると、私達のエゴイズムを通して見た全てのものは、楽しむ願望と、願望の反対側にある喜びであったのですが、今や私達は左の線と右の線があることを知るのです。そのうえ、その両方が真実で正しいのかもしれなく、このことが私達の進歩を助けます。そのもう一方で、その両方は互いに矛盾し合うかもしれませんが、それにもかかわらず、その両方には創造のなかに居場所があるのです。その理由はそれらが両方ともクリエーターにつながっているからです。

実際には「イサク」と「アブラハム」の特質の両方は私達の内面に含まれています:クリエーターから離れて存在し、創造物としての存続を可能にする、自分自身の受け取りの特質があり、その上にはクリエーターから獲得する授与の特質があるということです。ということは、人間の内面の中には、いつまでもこれら2つの力の対立が存在し続けるのです。したがって、唯一イサクを高めることによって、アブラハムはクリエーターに関する自分の本当の位置を理解するようになるのです。これが何故「息子」(Ben)が、新たな段階、Binaである「理解」(Leavin)を意味するのかということの理由です。


すべては私達の特質なかで描かれている

『ゾハール』VaYaera(そして主が現れた)章 94節:彼らは人々の形で地上に降りてきたので、もちろん彼[アブラハム]は彼らを見た。彼らは確かに聖霊であったが、世界に降りて来るときは、空気と、覆う物と、包む物の要素をまとい、人々にとってまさに彼らの形で見えるのだ。

これには違う解釈の仕方があります。私達は現実を喜びを受け取りたいという願望のなかで知覚します。存在しているものとして私達が知覚するすべてのものは、物体のなかで顕現された喜びを受け取りたいという願望です。“物体のなかで顕現された”とはどういう意味でしょうか?その意味は、現実が私の存在する段階における感覚のなかで知覚されているということです。

この段階以上に知覚するには、人の特質の変化が必要とされます。私は自分の願望の中で、自分が光と相似している程度、光を知覚するのです。それは様々な像と形を私に映し出します。“私はこの世に存在する”とは、何を意味するのでしょうか? その意味は、光が私の特質の中で輝き、そのなかに私が見るものが自分の現実であるということです。

もし私が光にもっと照らされ、自分の特質が変化するなら、私は、光により近くて特質においてより高い段階に上昇します。光が私のより是正および改善された特質の中で輝くことで、光はさらに高いはしごの踏みこ、または上層世界、を私に知覚させます。すべてのものは人間の特質の中で描かれているのです。