ゾハールの言語は何でもできる

ゾハールの言語は何でもできると記されてます。それは正確に何を意味しているのでしょう?

私達は1つに体系(システム)に存在しています。この体系は上層からの破壊の後にバラバラになった個人の魂から成っています。私達の間にある空間は、心の中の点(point in the heart)の外側にあり、私達はその空間の中でスピリチュアルワールドを感知するためのKli(器)を造っています。この器はクリエーターが創造物に明かされるために必要です。これは私達の存在すべての目的だけでなく、カバラの科学の目的でもあります。

私達の意図は、この器が光と類似して授与の器になれるほど十分に強い繋がりを、私達の間に造ることに向けられるべきです。この器が最も低いレベルで光に最小量でも類似すれば、すぐに光が形状の等価の法則に従って現れます。私達のすべての会合、コングレス、全作業は、私達がこの共通の器を造るだけのために意図されています。

この共通の器を造ることにおいて、とても興味深い現象があります。当然のことながら、私達の全員が、お互いとの繋がり、協力関係、相互保証、“1つの心を持った1人の人間”として一体化することだけを考えなくてはなりません。これが、この器を造ってその中にクリエーターを明かすための条件です。さもなければ彼が明らかになることはないでしょう。

また、他者が依然としてこの共通の器を造ることを遅らせていながら、自分が多大な努力でその作業に取り組むということは不可能です。その啓示に必要な努力を惜しんでいることに、他者がその全行程を窒息させる原因があるのです。自分が多大な努力をして、器をその完全な能力にまで至らせているのに、この状態も自分の努力の結果もまだ感じないということならありえます。

最終的に、すべての人はこの共通の魂の器のなかで相互依存関係にあるのです。これを相互保証と呼びます。よいにしろ悪いにしろ、どの人もみんなすべての人に対して責任があります。すべての人がこの作業において互いに支援しあい、励ましあい、助け合うことが可能であることは、よい方向です。これをポジティブな相互保証と呼びます。

ネガティブな相互保証とは、繋がりを望んでいるか否かに関係なく、すべての人が互いに結ばれているときのことです。この理由は体系が無限の第一状態(Alephの状態)において、すでに造られていたことにあります。しかし、もし私達が怠惰で不注意であれば、すべての人は他者にネガティブな影響をも及ぼします。これは他者にも進歩に対する願望の消失を感じさせることになり、真の目標が不明瞭になります。

それでも、カバリストはゾハールの言語は何でもできると言います。私達の進歩のすべては体系の中に記録されて残っており存在しています。たとえそれが明かされなくても、私達の努力はスピリチュアルワールドの中で失われません。それどころか、私達の努力のすべては体系の中に残って保存されます。

私達の共通の器が最も小さなレベルで光(授与・与えること)のようになる準備ができたなら、すぐに光は明かされます。私達は、友達の数およびスピリチュアルワールドを感知する共通の器を造るための彼ら全体のユニティー両方について話しているのです。

したがって、私達は正しい意図およびすべてのものが私達のつながりの中で造られ、すべての人が友達を気づかわなくてはならないといった感覚をもって『ゾハールの書』の学習にアプローチしなくてはなりません。

Discussion | Share Feedback | Ask a question




Laitman.com Comments RSS Feed