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ゾハールの書に対する個人の努力

私は自分の内側でクリエーターと自分の魂の全部分を見たいと願います:ケテル(Keter)、ホフマー(Hochma)、ビナー(Bina)、ダアト(Daat)、ヘセド(Hesed)、ゲヴラー(Gevurah)、ティフェレット(Tifferet)、ネツァハ(Netzah)、ホッド(Hod)、イェソッド(Yesod)、マクフート(Malchut)、そしてそれらの相互的な繋がり。これらの特質を、アブラハム(Abraham)、イサク(Isaac)、エサウ(Esau)、イシュマエル(Ishmael)、ヤコブ(Jacob)、そして12人の兄弟(12 brothers-ヤコブの12人の息子)、ヨセフ(Josef)、ダビデ(David)、ソロモン(Solomon)とも呼ぶことができます。そして、それらは全側面からヨブ(Job)やファラオ(Pharaoh)などの善と悪の力によって覆われています。

私達はこのスピリチュアル・ボディ(spiritual body-霊体)を3本線だけでなく、多次元的なものとして想像する必要があります。それは人体に多様なシステムがあるようなことに似ています:リンパ系、神経系、循環系、そして他のまだ知られてさえいない多数のシステム。さらに、これらは、それらを中を通って流れているエネルギー、液体、そして化学物質なのです。スピリチュアル・ボディにはさらに多くの構成部分との繋がりがあります。なぜなら、その部分部分に多種多様な性質と繋がりと形態が様々なレベルすべてにおいてあるからです。

それを実際に感じるようになるまで私達にはこれを学ぶことはできません。それを学ぶことができると思っている人は愚か者です。私達には、全てが授与の為に働くこの統合したシステムの中で存在したいと願う必要があるだけです。そのシステムの中で私達はクリエーターと創造を見つけるでしょう-実際には全ての物がその内側にあります。私達は「人間は小さな世界である」という原理に従ってそれを考察しなくてはなりません。

しかし、私達はこの私達の世界や肉体的な体について述べているのではありません。“人間”とは自分のことであり、“小さな世界”とはゾハールの書とその物語のことです。

コンピューターの画面上の魂

受け取った質問:コンピューターの画面上でグループを見るだけで、どう私は彼らとの結びつきを強めることができますか?

私の答え:今週末にグローバルなカバラコングレスが、世界の数十カ所で同時に開催されます。数百人集まる所もあれば、数十人の所もあるでしょう。世界中全部を合わせると、数千人の人々になるでしょう。そして、それら全ての人々は一体感を感じたいと望んでいます!

私達は心の点を結ぶことでしか一つになれないことを理解しなければなりません。全てのレッスン、食事、セミナー、コンサート、そして全てのことに一緒に参加しましょう。しかし、もっとも重要なことは私達の思考です。

私は自分と同じ願望を分かち合う世界中にいる数千人の人々と一緒にいるのだと覚えておかなくてはなりません。思考と願望は物理的な距離に制限されません。それらは無限の速度で広がる力であり、誰にも止められません。思考と願望の力は宇宙のどんなものよりも強力です。

したがって、もし私達が共に一つになろうと試みるなら、必ず私達の内側に変化を呼び起こすでしょう。私はそれが起きることを強く望みます。今日我々の世界グループには、全ての人が“壁”を飛び越えてスピリチュアル・ワールドのなかに渡るのを助けるだけの強さがあります。もし私達が共にそれをしようとするなら、それが起きるのに必要な機会が十分あります。それはすべて私達が進んで結束しようとする意欲と、一人でこの繋がりをつくる能力を有している人が誰もいないということの理解によります。

私達の状態はちょうどシナイ山のそれと同じです。私達には条件が与えられています:一つのハートを持つ一人の人間として一つになれと。しかし全員がこれが不可能であることを理解しています。私達はシナイ山(ヘブライ語でシナは“憎しみ”を意味します)の周りに立っています。憎しみの山は私達を互いから引き離します。それは私達全員を分断します。しかし私達には心の点があります。それらはこの山の麓に集められ、何もできずにいます。

これが、なぜ私達がトーラー -光- を私達に与えるようクリエーターが明かされることを要求するのかということの理由です。もし自分一人で他者に繋がる能力が私にあったとしたら、クリエーターは必要ありません。彼は悪の性向を創造しました。それは私がこの山の麓にいる間に明らかにする悪です。私達の大きな願望にも、これが私達の唯一の救いでその他には進むべき道がないという理解にもかかわらず、私達が共に一つになることか不可能であることを私達は気づいてます。

その結果、私達はトーラーを是正手段として要求するようになります。しかし、これは、分断された部分すべてを組み合わせることによって私達を一つのスピリチュアルな共有の容器に一体化させる上層の力(Upper Force)にしか可能にできないことです。

そしてそのあとで、クリエーターはクリーチャー(創造物・被像物)に明かされます。これを“トーラーの授与”と呼び、そこでクリエーターは私達の相互保証の立会人または保証人としてふるまいます。この相互保証を支えるのはまさに彼です。彼は、私達を互いに結びつける授与の力の集積なのです。

そのときから、私達は砂漠の中での40年間の旅に出発したことになり、私達自身でスピリチュアルな共有の容器(Kli)の形成を継続します・・・。

欲望と特質:定義

受け取った質問:欲望(願望)と特質(性質)の違いは何ですか?欲望とは何ですか?特質とは何ですか?

私の答え:欲望とは創造を構成している物質であり、それは常に受取りをします。それについて他に言及することはありません。特質とはその物質(欲望)がとる形です。形は、欲望の働き方、欲望がその働きから期待するもの(その意図という意味)とその目的を決定します。自分自身の為にか、それともその外側にいる誰か(他者とクリエーター)の為にかということです。この物質は喜びを受け取りたいという欲望ですが、環境や状況などによって、様々な形の働きが遂行でき、様々な状態になれます。

例えば、私は完全な授与(与えること)の特質である“アブラハム”の特質という事実にもかかわらず、誰かに制御されているという理由から、私には授与する機会がない。私には授与する相手がいない、または、周りの人々は私が授与する事を望んでいないという状況に居るのかもしれません。

これが特質と呼ばれるものです。特質とは、喜びを受け取りたいという欲望が、ある特定の外面的な形で働き、その形に包まれる(または、その形を装う)ことを意味します。主要な10個のセフィロート(Sefirot)というものが存在し、その他すべてのスピリチュアルな“物体”は、それらを内包する形または特質です。

ゾハールを読むとき、私達は私達の中にヨブ、ファラオ、そしてクリエーターといった様々な特質を認識します。これらすべては特質であり、私達の受け取りたいという欲望に包まれています。私達が想像できるどんなものも、単に喜びを受け取りたいという欲望です。したがって、私達の視点からは、クリエーターも喜びを受け取りたいという欲望の特定の形です-照らしている、高尚、高い、すばらしい、全ての人に授与しているというように。私達は彼のことをこのようにしか想像できません。なぜなら、私達は受け取りたいという欲望以外のどんな物質も有することができないからです。

徐々に、私達がどのくらいこれらすべての特質を私達の内側で識別しようと試みるかによって、包む光(Surrounding Light)の影響を受けます。その結果、スピリチュアルなシステムがますます内側で明確になりはじめ、私達はこれらの特質を正しく知覚しはじめます。必要なのは辛抱だけです。

私達に必要なものはハサディムの光だけです

受け取った質問:なぜホフマー(Hochma-知恵)の光を明かすことができないのですか?

私の答え:なぜなら、人にはハサディム(Hassadim-慈悲)の光が無いからです。人にあるものは受け取りたいという欲望だけであり、それはホフマーの光から喜びを受け取ることができないため、ホフマーの光の中で人は良い気分(気持ち)になれません。ホフマーの光は利己的な欲望や願望の中では感じ取れないのです。それはハサディムの光-授与するという意図(直射光における4つのステージの中のビナー-Bina)-が存在する分量だけしか明かすことができません。

人は無限のクリ(Kli-容器、受け取りをする意志)とその中に無限のホフマーの光を持つことができますが、もし人にハサディムの光がないなら、完全な暗闇-“地獄”と呼ばれる状態-を経験します。ホフマーの光の小さな閃きでさえ、ハサディムがないのなら、人はそれを苦しみ、病気、災害、危機、のように感じます。

私達はクリエーターの慈悲によって、ハサディムの光に包まれたホフマーの光の小さな感覚を与えられています。これは私達に命の感覚を与えます。だから私達はハサディムの光を獲得して最大限のホフマーの光の啓示に到達するために、存在して発達することができるのです。

クリエーターは私達と“遊ぶ”ことによって私達を成長させます。彼が私達にホフマーの光を照らすとき、私達の気分(気持ち)は悪くなります。しかし、それがなされる理由は、ハサディムの光(スクリーン、Ohr Hozer-反射光、授与の意図と愛)が必要であることを私達に理解させるためです。そのあとに、私達はスクリーンで直射光を反射することにより、ハサディムの光に包まれたホフマの光を明かすでしょう。

長い年月をかけ、ホフマーの照らしの度合いによって決まる打撃(苦難)を受けることによって人は問うようになります。「なぜ私は苦しんでいるのか?なにが起こっているのか?人生の意味とは何なのか?」と。そのあとで、その人はグループ、先生、そしてカバラの学習に導かれ、そこでその人は自分に必要なものがハサディムの光だけであると徐々に分かるようになります。

この理由から、カバラの科学は私達に授与のスクリーン(授与の意図と愛、Ohr Hassadim-ハサディムの光)の築き方を教えるのです。私達がどれくらい授与することができるかによって、クリエーターも授与する者(One who Bestows)として私達に啓示されます。ゲストとホストの事例のように。

この現実のスクリーンの後ろに隠れているもの

受け取った質問:ゾハールは私達の世界について述べているのではないと理解しています。しかし、どうやって私達はそれが述べてる願望(欲望)を日常の生活に役立たせることができますか?

私の答え:ゾハールは私達の世界についても述ています。ただし、人はコンピューターのスクリーンに映るイメージのように私達の世界を地上的なイメージの形で想像しているのにたいし、ゾハールは私達の内面でその映像を作り上げている力について述ているのです。ゾハールを読むに従って人は徐々に自分自身と世界を、上層の力(または特質)の投影として理解し始めるでしょう。

映像とそれを描いている力との繋がりを見ることは、人にこの映画のクリエーターと、彼の計画と、彼について理解させます。人は、彼との一体化に達するにつれて、自分自身の内側から彼を理解するようになります。

さらに、人は日常生活のうえでさえ、その同じ事について考えることを試みるべきです。そして、そうすることで人はこの世界またはこの現実とそのメーカーであるクリエーターとのとぎれない明確な繋がりを徐々に獲得するでしょう。

「そして暗闇は光として輝くだろう」

受け取った質問:スピリチュアリティーにおける光と暗闇の違いは何ですか?

私の答え:人がハザディムの光(Light of Hassadim-慈悲の光)を暗闇の中へともたらすとき、その人は暗闇がホフマの光(Light of Hochma-知恵の光)であることを明らかにします。カバラではこのように暗闇と光の違いを定義します。

夜とはハサディムの光がないとき、そして日中とはハサディムの光があるときのことです。ホフマの光は常に存在しています。なぜならホフマは本質的にクリエーターであるからです。

したがって、それは常に100%輝いているのです。しかし、第一の制限(Tzimtzum Alef)のあと、ホフマの光は人がハサディムの光(授与をするという意図)を引き起こす程度に従って明かされるようになりました。

したがって、今日私達が感じている暗闇と苦しみもクリエーターから送られてきているのです。それらは上層の光(Upper Light)が私達に近づいてきていることを示していますが、私達はそれを暗闇、悪、そして問題として感じます。その理由は私達が依然としてそれと反対であるからです。

私達の人生全体は上層が下層と遊んでいること

人生の困難のすべては私達に影響を与える上層の光が引き起こしています。私達はその光を私達のエゴイスティックな欲望(私達の正されていないケリム)の中で、光としてではなく暗闇として感じます。そして「なぜ私達の気分がとても悪いのか?」と問う自分たちに気づきます。

 私達が本質的に問うていることは、私達の状態の理由についてです。私達がその答えを見つけるためには、私達の特質(性質)が上層レベル(上層の者のアハップ-AHP)と反対であることがその理由であると明らかにしなくてはなりません。私達が霊的に進歩するにつれて私達の質問も徐々に変わり、最終的に私達は上層の者に対して「何をすればよいのか示してください!」と求めるまでになります。そして私達は彼が与えるどんな条件や状況も受け入れるようになります。

 今日私達は史上初めてエゴイスティックな形で世界とひとつに繋がり、このことが私達をクリエーターと反対にしました。これ以前までの私達は各自が個人的に数千年間発達してきました。そして私達は上層レベル(上層の者のアハップ)と反対ではありませんでした。なぜなら彼(支配している力)は一つで不可分なのに対し、私達(支配されている側の人たち)はお互いに繋がっていなかったからです。

 しかし今や私達が一つのシステムとして繋がったことにより、私達は上層の者(または上層の者のアハップ)と反対であることを明らかにしつつあります。彼は一つであり、私達も一つになりましたが、彼とは反対です。彼は私達の正された形の表れであり、私達はそれを私達の正されていないエゴイスティックな形に対比させて見ています。私達が危機と苦難を感じる原因は、私達の反対の性質にあるのです。

 私達が変わることを願い、上層の者に私達を正してもらって、彼と似るようになることを求めるのは、私達次第です。そのあとで私達は、光の感覚(授与と愛のフィーリング)に満たされ上層の者のレベルに上昇するでしょう。

 この道の上での成功と、それを早めて心地よいものにする私達の能力は、世界で起こっているすべての物事が私達と遊んでいるクリエーター-上層の下層とのゲーム-であると、私達がどれぐらい注意深く忘れないでいられるかによります。

私達の欲望の鏡

受け取った質問:私が鏡を見るとき、自分自身の像が見えます。そして、私はその像を扱うことも、また、それと意思の疎通を取ることもできないのは明白です。しかし、私達がこの現実を目にするとき、私達自身を本質的に見ます、または、私達の欲望(願望)の像を見ます。

私の答え:この理由からバール・ハスラムは人の欲望が二個の部分に分かれていると言うのです。内側に知覚される部分と、外側にあるように見えるもう一つの部分です。人は一方で自分自身を、もう一方で世界を知覚します。この誤った、反対の形の知覚は故意に創造されました。私達がその外側にある部分を“内的な”知覚に移転させる為にです。

事実、自分自身も含め外側にあるすべてのものは、実際、自分の内側で知覚されます。一つの欲望、一つの世界以外に存在するものはありません。

私達は、この肉体的な現実、または、“自分自身”と“この世界”というように分けられた感覚を是正すべきではないのです。それは現実の最も低いレベルです。私達はそうではなく、スピリチュアルな梯子の段を登って両方の部分をひとつに一体化させなくてはならないのです。現在の私達がいるこの現実とは、現実の最後で最低のレベルであり、私達が霊的に上昇してもそれが変わることはありません。それが変化し消えてなくなるのは“是正の最後”においてです。是正の最後とは、この世界が全体の是正、一体化した欲望のなかの一体化した感覚-“無限の世界”-に突入したときのことです。

それまでは、私達の世界の像は変わりません。“光”はそれに影響を及ぼしません。しかし、光は両方の部分、内的な部分と外的な部分をひとつに一体化する為にマルフート(Malchut)、つまり欲望に影響を及ぼします。その光は他の全欲望-私達の自由意志が及ぶスピリチュアルな欲望-にも影響を及ぼします。これらは私達が扱う欲望であり、是正(修繕、修復)しなくてはなりません。しかし、私達の住んでいるこの世界に是正するものはありません。私達が是正(修復)しなくてはならないこととは、魂と魂の間にある繋がり(絆)だけです。これが私達の欲望が一体化してひとつになる場所であり、そのなかで私達はクリエーターを明かすのです。

自分自身と自分を取り囲んでいる世界を知覚させている欲望の層は、是正の最後までそのまま残存します。125段目のレベルに到達し全体の最後の是正を獲得する最も偉大なカバリストでさえ、依然としてこの世界をあなたと同じように知覚します。彼も身体を治すには医者にいかなくてはならないし、この世界の全体を使って現実を内的なものと外的なものに分離されたものとして見なくてはなりません。たとえ彼が実際はそうでないことを知っているにも関わらず、彼は肉体の感覚器官を通してこのように現実を見ます。その理由は、この現実のレベルが最後の是正のまさに最後まで変わることがないからです。

私達が観ているこの映画の終わりには何が起きるのか?

受け取った質問:いわゆる“外側の世界”の全部の像が、写真を拡大する機械のように私の脳の中で実際に映し出されているとするなら、この場合、私の脳はどこにあるのですか?それは私の内側にあるのですか、それとも外側ですか?

私の答え:あなたの質問をより根本的に表現するとこうなります:私達は実際には誰なのか?現在、私はあたかも物質的な身体を持っているのではないかと感じています。私はその中で生き、苦しみと喜びそして満足とむなしさを経験します。今のところ私は、そのようにそれを関連づけなくてはなりません。「トーラーは人間の言語を喋る」と記されてます。この意味は、クリエーターが私達の言葉で私達に話しかけ、私達の内側(内面)に様々な感情と印象を呼び起こしているということです。

いずれ私達はこの言語の全部と世界に対する過去の概念を捨て、古い像が完全に消える様子を目のあたりにすることでしょう。あなたの前に見えるもので残存するものは何もないという私の発言を信じてください!この幻覚は霧のようになくなり、現在あなたが目にしている像は映画が終わるように消えるでしょう。私達は新たな知覚を手にすることになり、それは現在の私達には全く理解できないものです。そして、私達は新たな世界-逆の世界-に到達することになります。

想像は成長を促します

クリエーターは私達に、私達が内側から私達自身を知覚しているということだけでなく、私達の周りには私達を見て私達に注目している人々がいるということも信じさせています。しかし、これは幻想であり、偽りです。存在しているものは私達の内側(内面)にあるだけで、外側には何も存在していません。では、なぜ私達にはこれらの付加された外的な印象があるのでしょうか?その理由は、それらを通してクリエーターが私達のケリム(KelimKliの複数形。器・容器のという意味。つまり受け取りの意志、欲望のこと。実際に創造されたものはこれだけです。)を拡大し、私達を動物のレベルからその上の人間のレベル-“アダム”(アダムとは“クリエーターの様な”と解釈されます)の階級-に押上げながら私達の新たなレベルを構築する為です。すべては私達をクリエーターに類似させる為なのです。

 私達は、クリエーターが私達の外側に存在すると考えており、さらには私達が私達の外側にいる人々と接触、コミュニケート、交流していると考えてもいます。私達はクリエーターを私達の目の前に想像しますが、のちに私達はクリエーターを内側に移転し、“彼”(クリエーター)と結合します。そのあとは、私達の目の前に何もなくなります。私達が彼と一緒になって統一体になるからです。

 しかし、それまでは、私達は彼が私達の外側に存在するものとして想像します。これは人を誤らせるような外観であり、私達のケリムを“外的なもの”と考えさせ、私達の欲望(願望)のアヴィウット(Aviut-粗悪さ、粗野さ、粗大さという意味。英語では“coarseness”と訳される)をいっそう獲得させます。こうようにしてエゴ(私達が私達自身を他者に関連させて知覚させる欲望、または他者が私達に関連させて知覚させる欲望)は、私達が“上層の者”の特質を獲得する手助けをし、私達は彼のようになるのです。私達が唯一しなくてはならないことは、このイメージ(像)を外側から内側に移行させることです。そうすれば私達は彼と結合します。

 それでも、まったく違うことが是正の最後(Gmar Tikkun)のあとに起こるかもしれません。カバリストは私達の是正の最後とは単に新たな状態の始まりであると記述しています。私達の欲望(願望)を正すことによって新たなフェーズが始まるということです。これは時間が証明することでしょう。