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私達の“罪”の償いは私達の意図によります

受取った質問:私はあなたの著書を長い間読んできました。私はキリスト教徒の家庭で育ちましたが、私の持つ全質問の答えは見つかりませんでした。あなたは何度も聖書とは寓話的に書かれているので文字どおり(逐語的)に解釈すべきではないと言いました。私もそれと同じことをずいぶん前に確信しました。しかし、なぜ聖書は罪の犠牲という概念を起用しているのですか? キリスト教における最も重要な信仰はキリストが人類の罪の生け贄として自分自身を捧げたことを考慮すると、なぜ罪あがないの供物という戒律の必要性があるのですか?

私の答え:聖書(トーラー)の全部に書いてあることは、どのようにして人間のエゴイズムを是正し、創造主との完全な同等性の段階に到達するのかということです。ありうる罪のすべてを列挙している聖書の部分は、人間のエゴイズムの啓示について書かれたものです。

その意味は、人が自己のエゴイズムをさらけ出すとき、自分が罪人であると感じるということです。なぜなら自己の利益の為に他者を利用するからです。それと同時に聖書には解決法もあり、私達のエゴイズムの是正方法を伝えます。聖書の説明することは、エゴの違う段階(無生物、植物、動物、人間)とエゴの是正方法についてです。もっと正確には、それは私達の意図・意向を”自己のため”から”他者のため”に是正させる方法を伝えているのです。